1912年〜1913年(大正元年〜2年)
第一次護憲運動
藩閥・軍閥中心の政治に反対する第一次護憲運動が高まり、桂太郎内閣が総辞職に追い込まれた。
背景
陸軍の増師要求をめぐる対立から第二次西園寺内閣が総辞職すると、陸軍・長州閥を背景とする桂太郎が三度目の組閣を行った。この藩閥・軍閥中心の政治運営に対し、憲政擁護・閥族打破を掲げる運動が都市部の知識人や商工業者を中心に急速に広がった。
経緯
1912年末から1913年初めにかけて、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが中心となり、議会内外で桂内閣打倒を求める第一次護憲運動が展開された。1913年2月、桂内閣不信任案の審議中、議会を数万の群衆が取り囲む事態となり、桂太郎はわずか在任50日余りで総辞職に追い込まれた。この一連の政変は大正政変と呼ばれる。
結果・影響
大正政変は、世論と議会の力によって時の内閣を退陣させた画期的な出来事であり、藩閥中心の政治から政党や世論を重視する政治への転換を象徴する事件となった。この運動を契機に高まった民主主義的な風潮は「大正デモクラシー」と呼ばれる時代思潮として、その後の政党政治や普通選挙運動へとつながっていくこととなった。
主な人物:桂太郎,尾崎行雄,犬養毅
政治事件1914年(大正3年)
第一次世界大戦参戦
日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦し、ドイツ領の青島や南洋諸島を占領した。
背景
1914年、オーストリア皇太子暗殺事件を発端にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を根拠にイギリスから参戦を要請され、中国・太平洋地域におけるドイツの権益を奪う好機と捉えて参戦を決定した。
経緯
1914年、日本はドイツに宣戦布告し、中国・山東半島のドイツ租借地であった青島を攻略するとともに、赤道以北のドイツ領南洋諸島も占領した。戦場が主にヨーロッパであったため日本の被害は比較的軽微であった一方、連合国からの軍需品需要の高まりを受けて日本の重化学工業は急速に発展し、大戦景気と呼ばれる好況をもたらした。
結果・影響
この参戦を通じて日本はアジア太平洋地域におけるドイツの権益を接収し、国際的な発言力を強めた。大戦景気による急速な経済成長は、成金と呼ばれる新興富裕層を生み出す一方、物価高騰などの社会問題も引き起こし、後の米騒動の遠因ともなった。また戦争参加を機に、日本は中国に対して二十一箇条の要求を突きつけるなど、大陸進出をさらに強めていくこととなった。
外交合戦1915年(大正4年)
二十一箇条の要求
日本が中国に対し、山東の権益継承や南満州の権益強化などを求める二十一箇条の要求を突きつけた。
背景
第一次世界大戦でドイツ権益を接収した日本は、欧米列強がヨーロッパでの戦争に忙殺されている隙に、中国における自国の権益をさらに拡大しようとする好機ととらえ、大隈重信内閣のもとでこの機に乗じた外交を展開した。
経緯
1915年、日本は中華民国の袁世凱政権に対し、山東省のドイツ権益の継承、南満州及び東部内蒙古における権益の強化、漢冶萍公司の日中合弁化など5号21か条からなる要求を突きつけた。袁世凱政権は一部を留保しつつも軍事的圧力に屈して大部分を受諾し、条約が締結された。
結果・影響
この強圧的な要求は中国国内で激しい反日感情を呼び起こし、要求を受諾した5月9日は後に「国恥記念日」とされるなど、中国における反日運動の大きな契機となった。国際的にも日本の大陸進出に対する欧米諸国の警戒を強める結果となり、後のワシントン会議における対中国政策の見直しにもつながる、日中関係史上重要な出来事として記憶されている。
主な人物:大隈重信
外交政治1916年(大正5年)
大正デモクラシー
政治学者吉野作造が民本主義を提唱するなど、民主主義的な思潮「大正デモクラシー」が高まりを見せた。
背景
日露戦争後の産業発展や都市化の進展により、都市部を中心に中間層や労働者、知識人が増加し、藩閥や軍部中心の政治運営に対して、より広く民意を反映した政治を求める気運が社会に広がりつつあった。
経緯
1916年、東京帝国大学教授の吉野作造は、主権の所在は問わないまま政治の目的を一般民衆の利益・幸福に置き、政策決定に民意を反映させることを説く民本主義を提唱した。この思想は普通選挙の実現や政党内閣制の確立を求める理論的な支柱となり、都市中間層を中心に広く支持を集めた。同時期には美濃部達吉の天皇機関説など、立憲主義的な国家観を支持する学説も影響力を強めていった。
結果・影響
大正デモクラシーと呼ばれるこの思潮は、労働運動や女性解放運動、部落解放運動など多様な社会運動の広がりを促し、1925年の普通選挙法制定など、日本の政治の民主化を進める重要な原動力となった。一方でこの時代の言論の自由な高まりは、同時に制定された治安維持法によって次第に制約を受けていくこととなる。
主な人物:吉野作造
政治文化1918年(大正7年)
原敬内閣
原敬が、爵位を持たない衆議院議員として初めて首相となり、本格的な政党内閣を組織した。
背景
米騒動の責任を取って寺内正毅内閣が総辞職すると、藩閥や軍部出身者ではなく、衆議院第一党である立憲政友会の総裁を首相とする内閣を求める世論が高まっていた。
経緯
1918年、立憲政友会総裁の原敬が内閣を組織した。原は華族の爵位を持たない衆議院議員として初めて首相となり、「平民宰相」と呼ばれて国民の高い期待を集めた。陸軍・海軍・外務の3大臣を除く全閣僚を立憲政友会党員で固めた、日本で最初の本格的な政党内閣であった。原内閣は高等教育機関の拡充や交通網の整備などの積極政策を進めた。
結果・影響
原敬内閣の成立は、政党が政権を担うという政党政治の本格的な始まりを告げる画期的な出来事となった。しかし普通選挙の導入には慎重な姿勢をとるなど限界も見られ、1921年に原自身が東京駅で暗殺されるという悲劇的な結末を迎えた。それでもこの内閣の成立は、大正デモクラシーの高まりを背景とする政党政治発展の重要な一歩として位置づけられている。
主な人物:原敬
政治1918年(大正7年)
米騒動
シベリア出兵を見込んだ米の買い占めによる価格高騰に憤った民衆が、全国各地で米騒動を起こした。
背景
第一次世界大戦による好景気の一方で物価は上昇を続けており、シベリア出兵の決定を見込んだ米商人による米の買い占めや売り惜しみが重なったことで、米価は急激に高騰し、庶民の生活を圧迫していた。
経緯
1918年、富山県の漁村の主婦たちが米の県外積み出しに抗議して立ち上がったことをきっかけに、米価急騰への不満は瞬く間に全国に広がり、米屋や富商を襲撃する騒動が各地で発生した。騒動は都市部の労働者や炭鉱労働者も巻き込む大規模なものとなり、政府は軍隊を出動させてようやく鎮圧したが、鎮圧には多数の逮捕者と死傷者を出した。
結果・影響
この騒動の責任を問われた寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれ、代わって本格的な政党内閣である原敬内閣が成立した。米騒動は、都市の民衆運動が政権を退陣に追い込んだという点で大正デモクラシーを象徴する出来事の一つとされ、その後の社会運動や労働運動の高まりにも大きな影響を与えた。
事件経済1918年〜1922年(大正7年〜11年)
シベリア出兵
日本は連合国とともに、ロシア革命に干渉するためシベリアへ大規模な軍隊を派遣した。
背景
1917年のロシア革命によって成立した社会主義政権に対し、連合国はチェコスロバキア軍団の救出を名目にシベリアへの共同出兵を計画した。日本はこれに乗じてロシア極東地域に自国の勢力を拡大しようとする思惑から、他国よりもはるかに大規模な軍を派遣した。
経緯
1918年、日本はアメリカなど連合国とともにシベリアへ出兵し、最大時には7万人を超える兵力を投入した。しかし他の連合国が早期に撤兵する中、日本軍は単独で駐留を続け、抗日パルチザンとの戦闘やニコラエフスク事件(尼港事件)などで多くの犠牲を出しながら、明確な戦果を得られないまま戦線は泥沼化していった。
結果・影響
日本はようやく1922年に撤兵を完了したが、この出兵は多大な戦費と人的犠牲を費やしながら実質的な成果を得られず、国際的な信用も損なう結果となった。同時期に発生した米騒動の一因ともなったこの出兵は、大正期の対外政策の失敗例として、その後の日本の対外政策のあり方に大きな教訓を残すこととなった。
外交合戦1920年(大正9年)
国際連盟加盟
第一次世界大戦の講和を経て、日本は発足した国際連盟に常任理事国として加盟した。
背景
第一次世界大戦の戦勝国の一員となった日本は、1919年のパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約に調印してドイツの権益であった山東省と赤道以北の南洋諸島の権益を引き継ぐこととなった。会議では人種差別撤廃提案を行ったが、列強の反対で実現しなかった。
経緯
1920年、パリ講和会議の合意に基づいて国際平和機構である国際連盟が発足すると、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国となった。日本人の新渡戸稲造が事務次長に就任するなど、国際機構の運営にも積極的に関与し、アジアで唯一の常任理事国として国際的な地位を確立した。
結果・影響
国際連盟への加盟は、日本が第一次世界大戦を経て名実ともに世界の五大国の一つとしての地位を確立したことを示す出来事となった。しかしその後1931年の満州事変をめぐる対立から、日本は1933年に国際連盟からの脱退を通告することとなり、この協調的な国際関係のあり方は昭和期に入ると大きく転換していくこととなる。
主な人物:新渡戸稲造
外交1923年(大正12年)
関東大震災
相模湾を震源とする大地震が関東地方を襲い、火災の延焼などにより10万人以上が死亡した。
背景
1923年9月1日正午前、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生し、東京・横浜を中心とする関東地方一帯を激しい揺れが襲った。昼食時の火の使用が多い時間帯であったことも被害を拡大させる要因となった。
経緯
地震そのものによる建物の倒壊に加え、各所で発生した火災が強風にあおられて広範囲に延焼し、東京や横浜の市街地の多くが焼失した。死者・行方不明者は10万人を超え、日本の災害史上最大級の被害をもたらした。混乱の中、朝鮮人や社会主義者に関する流言が広がり、自警団や軍・警察によって多数の朝鮮人や中国人、社会主義者が殺害される痛ましい事件も発生した。
結果・影響
関東大震災からの復興にあたっては、後藤新平が中心となって近代的な都市計画に基づく帝都復興事業が進められ、東京の道路や公園の整備が大きく前進した。一方で震災時の朝鮮人虐殺は、日本の近代史における深い傷跡として今日まで検証と反省が続けられており、この震災は自然災害の被害と社会の分断という二つの側面から記憶される出来事となっている。
主な人物:後藤新平
災害1925年(大正14年)
治安維持法
普通選挙法の成立と同時期に、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を取り締まる治安維持法が制定された。
背景
ロシア革命の影響を受けて社会主義・共産主義思想が国内にも広がりつつあり、普通選挙の実施によってこうした勢力が議会に進出することを警戒した政府は、社会秩序の維持と天皇制の護持を目的とする統制立法の整備を進めていた。
経緯
1925年、加藤高明内閣のもとで治安維持法が制定された。この法律は、国体(天皇を中心とする国家体制)の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織・加入を禁止し、違反者には懲役刑などの厳しい罰則を科すものであった。制定当初は共産主義運動の取り締まりが主眼であったが、その適用範囲は次第に拡大解釈されていった。
結果・影響
治安維持法はその後1928年の改正で最高刑が死刑にまで引き上げられるなど厳罰化が進み、昭和期に入ると社会主義者だけでなく自由主義者や宗教団体の弾圧にも用いられるようになった。この法律は1945年の敗戦まで存続し、思想・言論の自由を大きく制約する法律として、戦前の日本社会に長く暗い影を落とすこととなった。
主な人物:加藤高明
政治1925年(大正14年)
普通選挙法
納税額による制限を撤廃し、満25歳以上のすべての男子に選挙権を与える普通選挙法が成立した。
背景
大正デモクラシーの高まりとともに、納税額によって選挙権を制限する仕組みを撤廃し、すべての成年男子に選挙権を認めるべきだとする普通選挙運動が、大正時代を通じて労働者や知識人を中心に大きな広がりを見せていた。
経緯
1925年、加藤高明内閣のもとで衆議院議員選挙法が改正され、それまで直接国税による納税額の制限が課されていた選挙権が撤廃され、満25歳以上のすべての日本人男子に選挙権が与えられることとなった。これにより有権者数は従来の約4倍にあたる約1240万人に増加した。ただし女性の参政権はこの時点では認められなかった。
結果・影響
普通選挙法の成立は、大正デモクラシー運動が達成した重要な成果の一つであり、その後の政党政治の発展に大きな影響を与えた。しかし同時期に成立した治安維持法とあわせて、普通選挙による社会主義勢力の伸長を警戒する政府の姿勢もうかがえ、自由化と統制強化という相反する二つの側面を併せ持つ立法として評価されている。
主な人物:加藤高明
政治1926年(大正15年/昭和元年)
大正天皇の崩御
大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王が即位して元号は昭和と改められた。
背景
大正天皇は即位当初から病弱であったとされ、大正時代後期には皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就いて政務を代行する摂政宮体制がとられていた。天皇の健康状態の悪化は、大正末期の宮中や政界においてたびたび懸念材料となっていた。
経緯
1926年12月25日、大正天皇は葉山御用邸において崩御した。皇太子裕仁親王はただちに践祚して新天皇となり、同日のうちに元号は「昭和」と改められた。大正時代は1912年の改元からわずか15年で幕を閉じることとなり、この短い期間の中で第一次世界大戦、大正デモクラシー、関東大震災など、近代日本を大きく揺るがすさまざまな出来事が凝縮されて起こった時代であった。
結果・影響
大正天皇の崩御と昭和への改元は、大正デモクラシーに象徴される比較的自由な社会の空気から、やがて軍部の台頭と対外進出が強まっていく昭和前期へと、日本社会が大きく転換していく一つの区切りとなった。短命に終わった大正時代であったが、政党政治や普通選挙、社会運動の発展など、戦後の民主主義にもつながる重要な礎を残した時代として再評価されている。
主な人物:大正天皇,昭和天皇
政治