1927年(昭和2年)
昭和金融恐慌
震災手形の処理をめぐる混乱から取り付け騒ぎが広がり、多くの銀行が休業に追い込まれる金融恐慌が起こった。
背景
関東大震災で決済不能となった手形(震災手形)の処理が長引く中、1927年の議会審議で片岡直温蔵相が東京渡辺銀行の経営破綻を口にしたことをきっかけに、預金者が一斉に銀行から預金を引き出そうとする取り付け騒ぎが発生した。
経緯
不安が連鎖的に広がり、中小銀行を中心に休業や倒産が相次いだ。台湾銀行の経営危機を救済する緊急勅令案が枢密院で否決されると、混乱はさらに深刻化し、政府は3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発動してようやく事態を収拾した。この過程で鈴木商店が破綻するなど、大企業にも影響が及んだ。
結果・影響
昭和金融恐慌により中小銀行の淘汰が進み、三井・三菱・住友などの財閥系大銀行への資金集中がいっそう強まった。この恐慌への対応の混乱の中で若槻礼次郎内閣は総辞職し、後継の田中義一内閣のもとで経済は一時的に落ち着きを取り戻したが、日本経済の脆弱さを露呈する出来事として、その後の昭和恐慌へとつながる不安定な時代の幕開けとなった。
経済事件1930年(昭和5年)
昭和恐慌
世界恐慌の影響と金解禁の実施が重なり、深刻な不況「昭和恐慌」が日本を襲った。
背景
1929年にアメリカで発生した世界恐慌の余波が世界中に広がる中、日本の浜口雄幸内閣は1930年、為替相場の安定と国際競争力の強化を狙って金輸出解禁(金解禁)を実施したが、そのタイミングは世界恐慌の直撃と重なる不運なものとなった。
経緯
金解禁による円高と世界的な不況が重なったことで、輸出は激減し、企業の倒産や失業が相次いだ。特に農村部では、アメリカ向け生糸輸出の激減や米価の暴落により深刻な打撃を受け、東北地方を中心に欠食児童や女子の身売りが社会問題化するほどの農業恐慌が発生した。都市でも大学卒業者の就職難が深刻化するなど、社会不安が急速に高まった。
結果・影響
昭和恐慌による社会不安の高まりは、既成政党政治への不満や軍部・右翼勢力への期待を高める土壌となり、後の五・一五事件や二・二六事件といった軍部によるテロやクーデター未遂事件の背景ともなった。政府は1931年に金輸出を再禁止して対応したが、この恐慌を機に日本は満州への進出など対外的な膨張政策によって経済的苦境を打開しようとする方向へ傾斜していくこととなった。
主な人物:浜口雄幸
経済1931年(昭和6年)
満州事変
関東軍が南満州鉄道の線路を爆破する柳条湖事件を起こし、満州全域を軍事占領した。
背景
満州における権益の維持・拡大を重視する関東軍の一部将校は、中国の国権回収運動の高まりに強い危機感を抱いており、政府の方針を無視して武力による満州の直接支配を目指す計画を独自に進めていた。
経緯
1931年、関東軍は奉天郊外の柳条湖で自ら南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国側の犯行と偽って軍事行動を開始した(柳条湖事件)。関東軍はまたたく間に満州の主要都市を占領し、政府の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大させた。翌1932年には清朝最後の皇帝溥儀を執政(後に皇帝)に据えた満州国の建国を宣言し、実質的な傀儡国家とした。
結果・影響
満州事変は、軍部が政府の統制を離れて独断で対外行動を起こした最初の大規模な事例であり、以後の軍部の政治介入を強める重要な転機となった。国際連盟はリットン調査団の報告に基づき満州国を認めず、日本に占領地からの撤退を勧告したため、日本は1933年に国際連盟からの脱退を通告し、国際的孤立への道を歩み始めることとなった。
政治合戦外交1932年(昭和7年)
五・一五事件
海軍の青年将校らが首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害した五・一五事件が起こった。
背景
昭和恐慌による社会不安が続く中、一部の軍人や右翼団体の間では、既成政党や財閥が私利私欲にとらわれて国家的な危機に対応できていないとする国家改造運動が広がっており、政党政治そのものに対する不満が高まっていた。
経緯
1932年5月15日、海軍の青年将校らを中心とする一団が首相官邸や警視庁、日本銀行などを襲撃し、当時首相であった犬養毅を射殺した。犬養は「話せば分かる」と説得を試みたが、実行犯は「問答無用」としてこれを聞き入れなかったと伝えられている。事件を起こした将校らは、政党政治や財閥中心の体制を打倒し、軍部主導の国家改造を目指していた。
結果・影響
この事件により、犬養毅の死後、元老西園寺公望は政党出身者ではなく穏健派の海軍出身者である斎藤実を後継首相に推薦し、これをもって大正末期から続いてきた政党内閣の慣行は事実上終わりを告げた。五・一五事件は、軍部の政治的発言力を急速に高め、日本が政党政治から軍部主導の政治体制へと移行していく重要な転換点となった。
主な人物:犬養毅
政治事件1933年(昭和8年)
国際連盟脱退
満州国を認めない国際連盟の勧告を不服とし、日本は国際連盟からの脱退を通告した。
背景
満州事変を受けて国際連盟が派遣したリットン調査団は、満州における日本の権益は認めつつも、満州国の建国は認められず、日本軍の撤退を求める報告書をまとめた。日本国内では満州国の存在を国家的な既得権益とみなす世論が強く、この勧告への反発が高まっていた。
経緯
1933年、国際連盟総会はリットン報告書に基づき、満州国を承認せず日本軍の撤退を求める勧告案を42対1の圧倒的多数で採択した。これに対し、日本代表の松岡洋右は総会の議場から退場し、日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告した。
結果・影響
国際連盟からの脱退により、日本は国際協調体制から離脱し、外交的に孤立を深めていくこととなった。この後、日本は1936年に日独防共協定を、1940年には日独伊三国同盟を結ぶなど、ドイツ・イタリアとの結びつきを強める一方、欧米諸国との対立は一層先鋭化し、破局的な戦争へと向かう坂道を転がり落ちていく重要な分岐点となった。
主な人物:松岡洋右
外交政治1936年(昭和11年)
二・二六事件
陸軍の皇道派青年将校らがクーデターを企て、大臣らを殺害し東京中心部を一時占拠した。
背景
陸軍内部では、天皇親政による国家改造を目指す皇道派と、総力戦体制の構築を重視する統制派との対立が深まっており、皇道派の青年将校たちは、財閥や既成政党、重臣らを国家の病根とみなし、これを武力で排除しようとする急進的な思想を強めていた。
経緯
1936年2月26日、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らは約1400名の兵を率いてクーデターを決行し、大蔵大臣高橋是清や内大臣斎藤実らを殺害し、首相官邸や国会議事堂周辺一帯を占拠した。反乱軍は「昭和維新」の断行を求めたが、昭和天皇が厳しくこれを非難し反乱軍とみなしたことで大義名分を失い、4日後には鎮圧されて首謀者は処刑された。
結果・影響
この事件を契機に陸軍内では皇道派が一掃されて統制派が主導権を握り、軍部は政治への発言力をいっそう強めていった。事件後に成立した広田弘毅内閣は軍部大臣現役武官制を復活させるなど、軍部の意向が政治を大きく左右する体制が強化され、日本は軍国主義への道をさらに突き進んでいくこととなった。
政治事件1937年(昭和12年)
日中戦争
北京郊外での盧溝橋事件を発端に日中両軍の衝突が拡大し、宣戦布告のないまま全面戦争へと発展した。
背景
満州事変以降、日本は華北地方への勢力拡大も進めており、中国国内では国民党と共産党が抗日のために協力する第二次国共合作の機運が高まるなど、日中間の緊張はいっそう高まっていた。
経緯
1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍に対して銃撃があったとされる盧溝橋事件が発生した。当初は現地での偶発的な衝突であったが、事態は拡大し、日本は宣戦布告のないまま中国全土への軍事行動を本格化させた。同年末には首都南京を占領し、この際多数の中国人捕虜・住民が殺害される南京事件が起こったとされる。
結果・影響
日中戦争は当初の予想に反して長期化し、国民党政府は重慶に退いて抗戦を続けたため、日本は広大な中国大陸で終わりの見えない戦争に引きずり込まれることとなった。この長期戦の遂行のため1938年には国家総動員法が制定されるなど、日本社会全体が戦争遂行のために動員される総力戦体制へと移行していくこととなった。
合戦外交1938年(昭和13年)
国家総動員法
日中戦争の長期化を受け、政府が議会の承認なしに人的・物的資源を統制できる国家総動員法が制定された。
背景
日中戦争が長期化する中、戦争遂行のためには労働力や物資、資金を国家が一元的に統制し、効率的に動員する体制を整える必要があるとの認識が政府・軍部の間で強まっていた。
経緯
1938年、近衛文麿内閣のもとで国家総動員法が制定された。この法律により政府は、議会の審議を経ることなく勅令によって、労働力の徴用、物資の生産・配給の統制、価格や賃金の統制、言論・出版の規制など、国民生活のほぼ全般にわたって統制を行う権限を得ることとなった。この法律に基づき国民徴用令や価格統制令など数多くの統制法令が次々と発せられていった。
結果・影響
国家総動員法の制定により、日本は議会制民主主義の枠組みを大きく後退させ、国家が国民生活を隅々まで統制する戦時体制を確立した。この体制のもとで国民生活は次第に窮乏し、配給制や勤労動員が広がるなど、太平洋戦争期に向けてさらに強化されていく総力戦体制の重要な法的基盤となった。
主な人物:近衛文麿
政治1940年(昭和15年)
日独伊三国同盟
日本・ドイツ・イタリアが、アメリカを主な仮想敵とする軍事同盟である日独伊三国同盟を締結した。
背景
日中戦争の長期化とアメリカ・イギリスによる中国支援(援蒋ルート)への反発から、日本はドイツ・イタリアとの結びつきを強めることで、アメリカを牽制し東南アジアへの南進を有利に進めようとする外交方針を強めていた。
経緯
1940年、ヨーロッパでドイツが快進撃を続ける中、日本は近衛文麿内閣のもとでドイツ・イタリアとの間に日独伊三国同盟を締結した。この同盟では、加盟国のいずれかが現在ヨーロッパの戦争または日中戦争に参加していない国から攻撃された場合、相互に援助することが定められ、事実上アメリカを念頭に置いた軍事同盟であった。
結果・影響
この同盟の締結は、アメリカとの対立をいっそう先鋭化させる結果となり、アメリカは日本への石油や屑鉄の輸出を制限するなど経済制裁を強化していった。三国同盟は日本の国際的孤立をさらに深め、日米交渉の行き詰まりとあいまって、1941年の太平洋戦争開戦へとつながる重要な要因の一つとなった。
主な人物:近衛文麿
外交1941年(昭和16年)
太平洋戦争開戦
日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカ・イギリスとの間で太平洋戦争が始まった。
背景
日中戦争の泥沼化とアメリカによる対日石油禁輸などの経済制裁強化により、日本は深刻な資源不足に直面していた。日米交渉は続けられたが、東南アジアからの撤兵などをめぐり双方の主張は歩み寄らず、東条英機内閣のもとで開戦が決定された。
経緯
1941年12月8日、日本海軍機動部隊はハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ太平洋艦隊に大きな損害を与えた。同時に日本軍はマレー半島にも上陸し、イギリス・アメリカに対して宣戦を布告した。開戦当初、日本軍は東南アジア各地で快進撃を続け、フィリピン・シンガポール・蘭印などを次々と占領した。
結果・影響
しかし1942年のミッドウェー海戦での敗北を境に戦局は徐々に悪化し、ガダルカナル島の攻防をはじめ各地で日本軍は劣勢に追い込まれていった。緒戦の快進撃とは裏腹に、この開戦は物量で圧倒的に優るアメリカとの総力戦へと日本を導き、最終的には1945年の敗戦という破滅的な結末へとつながっていくこととなった。
主な人物:東条英機
合戦外交1942年(昭和17年)
ミッドウェー海戦
ハワイ沖のミッドウェー島をめぐる海戦で、日本海軍は主力空母4隻を失う大敗を喫した。
背景
開戦当初の快進撃を受け、日本海軍はハワイ攻略の前哨拠点としてミッドウェー島の攻略を計画し、アメリカ太平洋艦隊の残存兵力を誘い出して撃滅することを狙っていたが、日本側の暗号がアメリカ側に解読されていたことには気づいていなかった。
経緯
1942年6月、日本海軍の機動部隊はミッドウェー島攻撃を開始したが、待ち構えていたアメリカ軍の空母部隊からの奇襲を受け、主力空母である赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻すべてを一挙に失う壊滅的な敗北を喫した。多くの熟練したパイロットや整備員も失われ、日本海軍の航空戦力は大きく損なわれた。
結果・影響
ミッドウェー海戦での敗北は、太平洋戦争における戦局の大きな転換点となり、これ以降日本は戦争の主導権をアメリカ軍に奪われ、防戦一方の劣勢な戦いを強いられることとなった。この敗北は当初国民には伏せられたが、以後ガダルカナル島の戦いをはじめ各地で日本軍は後退を重ね、戦局は日本にとって不利な方向へと大きく傾いていくこととなった。
合戦1945年(昭和20年)
原爆投下
アメリカ軍が広島と長崎に原子爆弾を投下し、両市で二十数万人にのぼる人々が犠牲となった。
背景
太平洋戦争末期、日本はポツダム宣言による無条件降伏の勧告を黙殺しており、アメリカは開発を進めていた原子爆弾を実戦で使用し、日本の早期降伏と戦後の国際的優位を得ることを企図していた。
経緯
1945年8月6日、アメリカ軍は広島市に人類史上初めてとなる原子爆弾を投下し、市街地は一瞬にして壊滅した。さらに8月9日には長崎市にも原爆が投下された。両市では熱線・爆風・放射線により、その年のうちだけで広島で約14万人、長崎で約7万人が死亡したと推計されており、生き残った被爆者もその後長期間にわたり放射線障害に苦しめられることとなった。
結果・影響
原爆投下は、同時期のソ連対日参戦とあわせて、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決断する直接的な要因の一つとなった。広島・長崎への原爆投下は、人類史上唯一の戦争における核兵器使用として、戦後の核軍縮運動や平和運動の原点となり、両市は「ヒロシマ・ナガサキ」として核兵器の惨禍を世界に伝え続ける象徴的な存在であり続けている。
災害合戦1945年(昭和20年)
東京大空襲
アメリカ軍による大規模な焼夷弾爆撃で東京の下町一帯が焼き払われ、一夜で10万人以上が死亡した。
背景
太平洋戦争末期、サイパン島を含むマリアナ諸島を占領したアメリカ軍は、そこを拠点とする長距離爆撃機B29による日本本土への戦略爆撃を本格化させており、軍需工場だけでなく市街地そのものを標的とする無差別爆撃へと戦術を転換していた。
経緯
1945年3月10日未明、アメリカ軍はおよそ300機のB29爆撃機を投入し、木造住宅が密集する東京の下町一帯に大量の焼夷弾を投下した。強風にあおられて火災は瞬く間に燃え広がり、逃げ場を失った住民が次々と犠牲となった。この空襲による死者は一夜にして10万人を超えたとされ、日本の歴史上最も多くの犠牲者を出した空襲となった。
結果・影響
東京大空襲を皮切りに、アメリカ軍は名古屋・大阪・横浜など日本の主要都市に対する無差別爆撃を繰り返し実施し、多くの市民が犠牲となった。こうした本土空襲の激化は、日本の継戦能力と国民生活を根底から破壊し、同年8月の原爆投下、そして終戦へと向かう戦争末期の悲惨な状況を象徴する出来事として記憶されている。
災害合戦1945年(昭和20年)
沖縄戦
アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、住民を巻き込んだ地上戦が約3か月にわたって続いた。
背景
太平洋戦争末期、日本本土防衛の最後の砦として位置づけられた沖縄には、アメリカ軍の本土上陸を少しでも遅らせるための時間稼ぎの役割が課されており、限られた戦力の日本軍は現地の住民をも動員して防衛態勢を敷いていた。
経緯
1945年4月、アメリカ軍は圧倒的な兵力で沖縄本島に上陸し、日本軍守備隊との間で激しい地上戦が展開された。この戦闘には多くの沖縄県民が根こそぎ動員され、鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊のように学生までが戦闘や看護に動員される一方、「集団自決(強制集団死)」に追い込まれる悲劇も各地で起こった。約3か月に及ぶ戦闘の末、6月に組織的な戦闘は終結したが、住民を巻き込んだ被害は甚大であった。
結果・影響
沖縄戦では、日本側の戦没者は軍人・民間人あわせて20万人近くに達したとされ、沖縄県民の犠牲は県民人口の4分の1にも及んだといわれる。この戦争体験は、戦後の沖縄が日本本土から切り離されてアメリカの統治下に置かれ、1972年の本土復帰後も広大な米軍基地が残り続ける歴史的背景ともなり、今日まで沖縄の人々の記憶に深く刻まれている。
合戦災害1945年(昭和20年)
終戦
日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、昭和天皇の玉音放送により国民に終戦が告げられた。
背景
広島・長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦により、日本の継戦能力は完全に失われつつあった。御前会議において、なお本土決戦を主張する意見もあったが、昭和天皇の裁断(聖断)により、ポツダム宣言の受諾が最終的に決定された。
経緯
1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、翌8月15日正午、昭和天皇自らの肉声による玉音放送がラジオを通じて全国に流され、国民に戦争の終結が告げられた。同年9月2日には東京湾に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書への調印が行われ、日本の敗戦が正式に確定した。
結果・影響
この終戦により、満州事変以来15年近くに及んだ戦争は終わりを告げ、日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下に置かれることとなった。国内では軍人・民間人あわせて300万人以上が犠牲になったとされ、アジア諸国にも甚大な被害をもたらしたこの戦争の反省の上に、日本国憲法の制定をはじめとする戦後の民主化改革が進められていくこととなる。
主な人物:昭和天皇
政治事件1946年(昭和21年)
天皇の人間宣言
昭和天皇が自らの神格性を否定し、人間であることを宣言した詔書。
戦前の日本では天皇は現人神とされ、国家神道の中心に位置づけられていた。敗戦後、GHQは軍国主義の精神的支柱であった天皇の神格化を解体する必要があると考え、天皇制の存続と民主化を両立させる方策を模索した。1946年1月1日、昭和天皇は年頭の詔書を発し、天皇と国民との関係は神話や伝説に基づく神格性ではなく、相互の信頼と敬愛によって結ばれるものであると述べ、いわゆる人間宣言を行った。この詔書は五箇条の御誓文の引用から始まり、明治以来の近代化路線との連続性も示された。人間宣言により天皇は法的にも精神的にも人間としての地位に置かれ、その後の日本国憲法における象徴天皇制への移行の思想的な布石となった。天皇制の存続をめぐる国内外の議論に一定の決着をつける意味も持った。
主な人物:昭和天皇
政治1947年(昭和22年)
日本国憲法の施行
国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三大原則とする新憲法が施行された。
敗戦後、GHQは大日本帝国憲法に代わる民主的な憲法の制定を日本政府に求めた。政府が作成した松本案が天皇主権を維持するなど保守的であったため、GHQは独自にマッカーサー草案を作成し、これを基に政府が改正案をまとめた。1946年11月3日に日本国憲法として公布され、半年の周知期間を経て1947年5月3日に施行された。国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄と戦力不保持を定めた平和主義を三大原則とし、天皇は国政に関する権能を持たない象徴と位置づけられた。地方自治や教育の機会均等なども新たに規定された。施行後、民法や刑法など関連法規も次々と改正され、家制度の廃止や男女平等の徹底など、社会の隅々にまで民主化の影響が及んだ。現在に至るまで一度も改正されていない。
主な人物:幣原喜重郎
政治1946〜1950年(昭和21年〜昭和25年)
農地改革
GHQ主導で地主制を解体し、多数の自作農を創設した農地制度改革。
戦前の日本農村では地主が土地を集中的に所有し、多くの農民が高額な小作料を課される小作人として貧困に苦しんでいた。GHQはこうした寄生地主制が軍国主義の温床になったと分析し、農村の民主化を占領政策の柱の一つに据えた。1946年から第一次農地改革が始まったが不徹底であったため、同年末から自作農創設特別措置法に基づく第二次農地改革が本格的に実施された。政府が地主の保有する小作地を強制的に買い上げ、実際に耕作していた小作人に安価で売り渡す方式がとられ、1950年頃までにほぼ完了した。この結果、全農地に占める小作地の割合は劇的に低下し、大多数の農家が自作農となった。農村における地主と小作の身分的格差は解消され、戦後日本の社会構造の平準化と農業生産意欲の向上に大きく寄与した。
政治経済1946〜1948年(昭和21年〜昭和23年)
極東国際軍事裁判
連合国が日本の戦争指導者を裁いた国際軍事裁判で、東条英機ら7名に死刑判決。
ポツダム宣言に基づき、連合国は日本の戦争責任者を裁くため、ドイツのニュルンベルク裁判に倣って極東国際軍事裁判、通称東京裁判を開廷した。1946年5月に審理が始まり、東条英機ら28名の軍・政府指導者が平和に対する罪などで起訴された。裁判はオーストラリアのウェッブ裁判長のもとで進められ、インドのパール判事が全員無罪を主張する反対意見を提出するなど、裁判の正当性をめぐる議論も生じた。1948年11月に判決が下され、東条英機ら7名に絞首刑、他の被告にも終身禁固などの判決が言い渡され、翌月刑が執行された。この裁判は日本の戦争責任を国際的に明確化する一方、勝者による裁きであるとの批判や、天皇の戦争責任が問われなかった点など、今日まで評価が分かれる歴史的事件となっている。
主な人物:東条英機
政治事件外交1950年(昭和25年)
朝鮮戦争特需
朝鮮戦争の勃発により在日米軍からの軍需発注が急増し、日本経済が急速に回復した。
1950年6月、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、日本は在日米軍の前線基地・補給拠点として機能することになった。米軍は日本国内の企業に対し、兵器の修理や車両部品、繊維製品、食料など膨大な物資を発注し、いわゆる特需景気が発生した。敗戦後の日本経済は深刻な物資不足とインフレに苦しんでいたが、この特需により鉱工業生産が急速に回復し、1951年には戦前の水準を上回るまでになった。GHQは特需を機に日本経済の自立を促す方向へ占領政策を転換し、また警察予備隊の創設など再軍備への第一歩も踏み出された。朝鮮戦争特需は日本が高度経済成長へ向かう出発点として位置づけられ、繊維や金属工業を中心に企業の設備投資が活発化するきっかけともなった。
経済外交1951年(昭和26年)
サンフランシスコ平和条約
日本が連合国48か国と結んだ講和条約で、翌年発効し独立を回復した。
敗戦後、日本は連合国の占領下に置かれていたが、冷戦の進行に伴い米国は日本を西側陣営に早期に組み込む方針へ転換した。1951年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、吉田茂首相が全権として出席し、日本は連合国48か国との間でサンフランシスコ平和条約に調印した。ソ連やポーランドなど一部の国は調印を拒否し、中国は会議に招かれず、全面講和か単独講和かをめぐって国内でも激しい論争が起きた。条約は翌1952年4月に発効し、日本は主権を回復して独立国としての地位を取り戻した。同日、日米安全保障条約も締結され、独立後も米軍が日本国内に駐留を続けることとなった。この講和は日本の国際社会への復帰を実現する一方、沖縄や小笠原の米国統治継続など、後年まで尾を引く課題も残した。
主な人物:吉田茂
外交政治1955年(昭和30年)
55年体制の成立
左右社会党の統一と保守合同による自由民主党結成で、自民党優位の政治体制が成立した。
1955年、それまで左派と右派に分裂していた日本社会党が再統一を果たすと、保守勢力の間にも危機感が広がった。これを受けて同年11月、自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成された。以後、自民党が衆議院で安定多数を占め、社会党が野党第一党として対峙する政治構図が長期にわたって固定化し、これを55年体制と呼ぶ。自民党は保守本流として経済成長重視の政策を進め、社会党は革新勢力として憲法擁護や安保反対を掲げて対抗した。この体制のもとで政権交代は事実上起こらず、自民党の一党優位のもとで官僚機構や財界と結びついた安定的な政策運営が続けられた。55年体制は1993年に非自民連立政権が誕生するまで、実に38年間にわたり日本政治の基本構造を規定し続けた。
主な人物:鳩山一郎
政治1950年代後半〜1970年代初頭(昭和30年代〜昭和40年代)
高度経済成長
年平均10%前後の経済成長が続き、日本は世界有数の経済大国へと発展した。
朝鮮戦争特需を経て回復した日本経済は、1950年代半ばから石油危機に至る1970年代初頭まで、年平均10%前後という驚異的な成長を続けた。1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と記し、経済復興の終了と新たな成長段階への移行を宣言した。神武景気・岩戸景気・オリンピック景気・いざなぎ景気と好況が相次ぎ、重化学工業化や技術革新、設備投資の拡大、安価で豊富な労働力、国民の高い貯蓄率などが成長を支えた。三種の神器と呼ばれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫、続く新三種の神器のカラーテレビ・クーラー・自動車が各家庭に普及し、国民生活は大きく向上した。一方で都市への人口集中や公害問題、地方の過疎化といった歪みも生じた。1968年には国民総生産が資本主義国で世界第2位に達し、日本は経済大国としての地位を確立した。
経済1960年(昭和35年)
日米安全保障条約改定
岸信介内閣が安保条約を改定し、国会周辺で大規模な反対運動(60年安保)が起きた。
1951年に結ばれた旧日米安全保障条約は、米軍の日本防衛義務が明記されないなど片務的な性格が強かった。岸信介首相は条約を双務的なものに改定し、対米関係の対等化を図ろうとしたが、条約に米軍の日本防衛義務が加わる一方で、日本が米国の戦争に巻き込まれる危険が高まるとの批判が強まった。1960年、新条約の国会承認をめぐり、社会党や共産党、労働組合、学生団体などが結集し、国会議事堂を取り巻く空前規模の反対デモが連日繰り広げられた。岸内閣は衆議院で条約を強行採決し、条約は自然承認によって発効したが、混乱の責任を取って岸内閣は総辞職した。60年安保闘争は戦後日本最大級の大衆運動として、その後の政治や社会運動に大きな影響を残し、後任の池田勇人内閣は所得倍増計画を掲げて経済重視路線へと転換した。
主な人物:岸信介
政治外交事件1964年(昭和39年)
東京オリンピック(1964年)
アジア初の夏季オリンピックが東京で開催され、日本の戦後復興を世界に印象づけた。
敗戦からわずか19年後の1964年10月、東京で第18回夏季オリンピックが開催された。アジアで初めて開かれるオリンピックであり、日本にとっては国際社会への復帰と経済成長を世界に示す絶好の機会と位置づけられた。開催に合わせて東海道新幹線が東京・大阪間で開業し、首都高速道路網の整備も急ピッチで進められるなど、インフラ整備が集中的に行われた。大会には93の国と地域が参加し、日本は柔道や女子バレーボールなどで活躍し、多くの国民をテレビの前に釘付けにした。大会運営の円滑さと東京の近代的な姿は海外メディアからも高く評価され、日本人の自信回復にもつながった。東京オリンピックは高度経済成長を象徴する国家的イベントとして記憶され、その後の大阪万博開催などへの流れを準備した。
文化政治1965年(昭和40年)
日韓基本条約
日本と韓国が国交を樹立し、植民地支配下の請求権問題などに一応の決着をつけた。
1945年の日本敗戦後、朝鮮半島は日本の植民地支配から解放されたが、南北分断と朝鮮戦争を経て、日本と大韓民国の間には長らく正式な国交が存在しなかった。冷戦下で米国は日韓両国の関係正常化を強く求め、1951年から断続的に交渉が続けられたが、植民地支配の評価や在日朝鮮人の法的地位、財産・請求権問題などをめぐり難航した。1965年、佐藤栄作内閣のもとで日韓基本条約が調印され、両国間の国交が正式に樹立された。同時に締結された請求権・経済協力協定に基づき、日本は韓国に対して無償・有償の経済協力を供与し、これにより両国間の請求権問題は完全かつ最終的に解決されたとされた。条約締結には国内外で強い反対運動も起きたが、その後の日韓の経済的・人的交流拡大の基盤となった一方、歴史認識をめぐる対立は今日まで完全には解消していない。
主な人物:佐藤栄作
外交政治1967年(昭和42年)
公害対策基本法の制定
高度経済成長に伴う深刻な公害問題に対応するため、公害対策の基本方針を定めた法律が制定された。
高度経済成長の過程で工場からの排水や排煙による環境汚染が各地で深刻化し、水俣病・新潟水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病のいわゆる四大公害病をはじめ、健康被害を訴える住民運動が全国で相次いだ。企業の生産活動優先の風潮の中で被害への対応は遅れ、被害者による訴訟も各地で提起されるようになった。こうした事態を受け、1967年に公害対策基本法が制定され、大気汚染や水質汚濁など典型七公害を定義し、国・地方公共団体・事業者の責務を初めて法的に明確化した。ただし当初は経済発展との調和を図るとする条項が含まれ、公害対策が経済優先の枠内にとどまるとの批判もあった。1970年のいわゆる公害国会でこの調和条項は削除され、翌1971年には環境庁が設置されるなど、公害対策はその後さらに強化されていった。
主な人物:佐藤栄作
政治災害1972年(昭和47年)
日中国交正常化
田中角栄首相が訪中し、日本と中華人民共和国の国交が正常化された。
第二次世界大戦後、日本は台湾の中華民国政府と国交を結んでいたため、大陸を支配する中華人民共和国とは長らく国交のない状態が続いていた。1971年に米国のニクソン大統領が中国を電撃訪問したことで国際情勢が大きく動き、翌1972年に就任した田中角栄首相はこの流れを受けて日中国交正常化交渉に乗り出した。同年9月、田中首相は自ら北京を訪問して周恩来首相らと会談を重ね、日中共同声明に署名した。声明では日本が中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と認め、台湾との外交関係は断絶することとなった。これにより日中両国は戦争状態の終結と国交正常化を実現し、日本国内でも中国との経済・文化交流が急速に拡大していった。1978年には日中平和友好条約も締結され、両国関係はさらに制度的に強化された。
主な人物:田中角栄
外交政治1972年(昭和47年)
沖縄返還
米国統治下にあった沖縄の施政権が日本に返還され、27年ぶりに本土復帰を果たした。
沖縄は太平洋戦争末期の激しい地上戦の末に米軍に占領され、サンフランシスコ平和条約でも日本の主権から切り離されて米国の統治下に置かれ続けた。米軍基地の存在による事件・事故や土地接収への反発から、沖縄では本土復帰を求める住民運動が粘り強く続けられた。佐藤栄作首相は「核抜き本土並み」の返還を掲げて米国との交渉を進め、1971年に沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日に沖縄の施政権が日本に返還された。しかし米軍基地の多くはそのまま残され、核兵器の持ち込みに関する日米間の密約の存在も後に明らかになるなど、「核抜き本土並み」の実態には疑問も残った。沖縄返還により日本は戦後処理の一つの区切りを迎えたが、今日に至るまで沖縄には日本国内の米軍専用施設の多くが集中し続けている。
主な人物:佐藤栄作
外交政治1973年(昭和48年)
第一次石油危機
第四次中東戦争を契機とする原油価格の急騰で、日本は狂乱物価とトイレットペーパー騒動に見舞われた。
1973年10月に第四次中東戦争が勃発すると、アラブ産油国は石油輸出国機構と連携して原油価格の大幅な引き上げと生産制限を実施し、いわゆる第一次石油危機が発生した。原油のほぼ全量を輸入に頼っていた日本経済は大きな打撃を受け、原油価格の急騰は物価全般に波及して激しいインフレ、いわゆる狂乱物価を引き起こした。一部の消費者の不安心理からトイレットペーパーなどの日用品の買い占め騒動も起き、社会に混乱が広がった。政府は総需要抑制策を打ち出して物価の沈静化を図る一方、企業は省エネルギー化や減量経営を進め、産業構造を重厚長大型から省資源・省エネルギー型へと転換させていった。この危機を境に、日本は1950年代半ばから続いた高度経済成長の時代に終止符を打ち、安定成長期へと移行することとなった。
経済1986年頃〜1991年頃(昭和61年頃〜平成3年頃)
バブル景気
株価・地価が異常に高騰した資産バブル景気が始まり、日本経済は空前の好況に沸いた。
1985年のプラザ合意により急速な円高が進行すると、輸出産業の不振を懸念した日本銀行は低金利政策を続け、市場に大量の資金が供給された。行き場を失った資金は株式や不動産への投機に向かい、1986年頃から株価と地価が実体経済とかけ離れて異常に高騰する資産バブルが発生した。企業は含み益を背景に積極的な財テクや不動産投資を行い、個人消費も活発化して高級品市場が拡大するなど、社会全体が空前の好況に沸いた。地価の高騰により都市部では住宅取得が困難になるなど弊害も生じたが、当時は「土地の値段は下がらない」という土地神話が広く信じられていた。しかし1989年末をピークに日本銀行が金融引き締めに転じ、1991年頃から株価と地価は急落してバブルは崩壊した。これにより多くの金融機関が不良債権を抱え込み、以後の日本経済は長期にわたる低迷、いわゆる失われた10年へと突入していくこととなった。
経済1989年(昭和64年)
昭和天皇の崩御
昭和天皇が崩御し、64年に及んだ昭和という時代が幕を閉じた。
昭和天皇は1926年の即位以来、満州事変や日中戦争、太平洋戦争という激動の戦前・戦中期と、敗戦後の占領と高度経済成長を経た戦後復興期の両方を、日本の元首・象徴として経験した稀有な存在であった。1988年秋に体調を崩して以降、病状は国民の大きな関心事となり、社会には自粛ムードが広がった。1989年1月7日、昭和天皇は87歳で崩御し、皇太子明仁親王が直ちに皇位を継承して新元号は平成と改められた。昭和という元号は1926年から1989年まで62年余り続き、日本の元号の中で最長を記録した。この間、日本は軍国主義による対外侵略と壊滅的な敗戦、そして焼け跡からの奇跡的な経済復興と繁栄という、対照的な二つの時代を経験しており、昭和天皇の崩御は激動の20世紀日本を象徴する一つの時代の終わりとして広く受け止められた。
主な人物:昭和天皇
政治