710年(和銅3年)
平城京
元明天皇が、唐の長安を模範とした本格的な都城・平城京に遷都した。
背景
藤原京は完成から十数年しか経っておらず、律令制の進展に伴い官僚機構が拡大する中で、より整った規模の都が必要とされるようになっていた。また、宮域を都の中央に置いた藤原京の構造には、中国的な都城観との違いも指摘されていた。
経緯
710年、元明天皇は奈良盆地北部に新たに造営された平城京に都を移した。平城京は唐の都・長安を模範とし、東西南北に走る大路・小路によって碁盤の目状に区画された条坊制の都城で、北端中央には天皇の住まいである内裏や官庁が集まる平城宮が置かれた。東西の市が設けられ、大陸から渡来した文物や技術も集まる国際色豊かな都市として発展した。
結果・影響
平城京は710年から784年に長岡京へ遷都されるまでの約70年間、日本の首都として機能し、この時代は都の名にちなんで「奈良時代」と呼ばれるようになった。この間、律令制度の整備が進み、東大寺をはじめとする壮麗な寺院が建立されるなど、天平文化と呼ばれる国際色豊かな文化が花開いた。
主な人物:元明天皇
政治文化712年(和銅5年)
古事記
稗田阿礼が誦習した神話・伝承を太安万侶が筆録し、現存最古の歴史書「古事記」が完成した。
背景
天武天皇は、諸氏族に伝わる帝紀や旧辞の内容に誤りや矛盾が多いことを憂い、正しい歴史を後世に伝えるため、記憶力に優れた稗田阿礼に古い伝承を誦み習わせていたが、天武天皇の在世中に完成には至らなかった。
経緯
元明天皇は太安万侶に命じ、稗田阿礼が誦習していた内容を文字として書き起こさせ、712年に古事記が完成した。上・中・下の三巻からなり、上巻には天地創造から神々の物語である神話が、中・下巻には初代神武天皇から推古天皇に至る歴代天皇の系譜や事績が、漢字の音と訓を交えた独特の文体で記されている。
結果・影響
古事記は現存する日本最古の歴史書として、日本神話や古代の王権観を伝える貴重な史料となっている。同時期に編纂が進められていた日本書紀とあわせて、古代日本の国家意識や天皇の正統性を示す重要な文献として、後世の文学・宗教・歴史研究に大きな影響を与え続けている。
主な人物:太安万侶,稗田阿礼
文化720年(養老4年)
日本書紀
舎人親王らが編纂した、国家の正史として編年体で記された日本書紀が完成した。
背景
律令国家として体制を整えつつあった朝廷は、中国の正史にならい、対外的にも通用する公式な国家の歴史書を編纂することで、国家としての正統性や由緒を内外に示そうとしていた。
経緯
天武天皇の発案により編纂が始まったとされる日本書紀は、舎人親王を中心とする編纂チームによって作業が進められ、720年に完成した。全30巻からなり、神代から持統天皇の時代までの出来事を、年月日を追って記す編年体の形式で記述している。中国の史書を強く意識した漢文体で書かれ、対外的にも通用する正式な国史として位置づけられた。
結果・影響
日本書紀は、六国史と呼ばれる奈良・平安時代に編纂された国家の正史群の最初のものであり、以後の日本の歴史記述の基本的な形式を確立した。古事記とともに、記紀と呼ばれ日本古代史研究における最も基本的な文献史料として、現在に至るまで広く活用されている。
主な人物:舎人親王
文化723年(養老7年)
三世一身法
新たに灌漑施設を作って開墾した土地の私有を三代にわたって認める三世一身法が制定された。
背景
律令制のもとでは班田収授法により、人民に一定期間口分田を貸し与える公地公民制が基本とされていたが、人口の増加に伴い口分田が不足し、荒廃した土地も増えていたため、新たな農地開発を促す必要が生じていた。
経緯
723年、朝廷は三世一身法を制定し、新しく灌漑用の池や溝を作って土地を開墾した場合にはその子・孫・曾孫の三代にわたって、既存の施設を利用して開墾した場合には本人一代に限って、その土地の私有を認めることとした。これにより農民や豪族の開墾意欲を刺激し、耕地の拡大を図ることが狙いであった。
結果・影響
三世一身法は一定の効果をあげたものの、期限が来れば土地が国に返還されるという制約から、大規模で長期的な開発への意欲を十分に引き出すには至らなかった。このため20年後の743年には、開墾地の永久私有を認める墾田永年私財法が新たに制定されることとなり、公地公民の原則は次第に崩れていくこととなった。
政治経済729年(神亀6年)
長屋王の変
左大臣であった長屋王が謀反の疑いをかけられ、藤原氏の圧力のもとで自害に追い込まれた。
背景
奈良時代前期、皇族出身の左大臣であった長屋王は朝廷内で大きな勢力を誇っており、政治の実権を強めようとする藤原不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)にとって、目の上のこぶのような存在となっていた。
経緯
729年、長屋王が左道(呪術)を用いて国家を傾けようとしているという密告があり、朝廷は直ちに兵を派遣して長屋王の邸宅を包囲した。取り調べの末、長屋王は妻子とともに自害に追い込まれ、その一族も滅ぼされた。この事件は長屋王の変と呼ばれ、後に密告が藤原氏による陰謀であった可能性が高いことが指摘されている。
結果・影響
長屋王の変により有力な対抗勢力を排除した藤原四兄弟は、朝廷内での権力を大きく強めることとなった。しかし737年には天然痘の流行により藤原四兄弟全員が相次いで病死し、政治情勢は再び大きく揺れ動くこととなった。
主な人物:長屋王
政治事件740年(天平12年)
藤原広嗣の乱
大宰府に左遷された藤原広嗣が、吉備真備らの排除を求めて九州で大規模な反乱を起こした。
背景
藤原四兄弟の病死後、朝廷では唐からの留学経験を持つ吉備真備や僧の玄昉が聖武天皇に重用されるようになっており、これに不満を抱いた藤原広嗣は大宰少弐として九州の大宰府に左遷されていた。
経緯
740年、藤原広嗣は吉備真備・玄昉の排除を求める上表文を朝廷に送るとともに、九州で大規模な兵を挙げて反乱を起こした。朝廷は大野東人を将軍とする追討軍を派遣し、両軍は激しく交戦したが、広嗣軍はやがて劣勢となり、広嗣自身も逃亡の末に捕らえられて処刑された。
結果・影響
この反乱に強い衝撃を受けた聖武天皇は、平城京を離れて恭仁京・難波宮・紫香楽宮と遷都を繰り返す異例の行動をとった。政情不安への対応として仏教による国家鎮護を強く志向するようになり、こうした情勢が後の国分寺建立の詔や大仏造立の詔につながっていったと考えられている。
主な人物:藤原広嗣
政治事件合戦741年(天平13年)
国分寺建立の詔
聖武天皇が、国家の安泰を仏教の力で祈るため全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じた。
背景
相次ぐ天然痘の流行や飢饉、藤原広嗣の乱などの政情不安が続く中、聖武天皇は仏教の持つ鎮護国家の力に強い期待を寄せ、仏の加護によって国内の混乱を鎮めようとする志向を強めていった。
経緯
741年、聖武天皇は諸国に対して国分寺と国分尼寺を建立するよう命じる詔を発した。国分寺の正式名称は金光明四天王護国之寺、国分尼寺は法華滅罪之寺とされ、それぞれ七重塔の建立や写経なども命じられた。各国では国司が中心となって建立が進められたが、費用や技術の面で難航する国も多く、完成には長い年月を要した国もあった。
結果・影響
国分寺・国分尼寺の建立は、仏教を通じて中央の権威を地方にまで浸透させる政策としての側面も持っており、律令国家の地方支配を宗教面から支える役割を果たした。この事業は743年の大仏造立の詔とあわせて、聖武天皇が進めた鎮護国家仏教政策の中心的な柱として位置づけられている。
主な人物:聖武天皇
政治文化743年(天平15年)
墾田永年私財法
新たに開墾した田地の永久的な私有を認める墾田永年私財法が制定された。
背景
三世一身法のもとでは、開墾した土地もいずれ国に返還される期限があったため、大規模な開発に取り組む意欲が十分に高まらず、口分田の不足や荒廃地の増加という問題は根本的には解決されていなかった。
経緯
743年、朝廷は墾田永年私財法を制定し、身分に応じた面積の上限を設けたうえで、新たに開墾した土地の永久私有を認めることとした。これにより貴族や大寺院、地方豪族は積極的に開墾を進め、私有地としての初期荘園が各地で形成されていくこととなった。東大寺をはじめとする大寺院も広大な荘園を各地に開くようになった。
結果・影響
墾田永年私財法は、公地公民を原則とする律令制の土地制度に大きな風穴を開けるものとなり、以後、土地の私有化と荘園の拡大が進んでいく契機となった。この流れは平安時代にかけてさらに加速し、律令制に基づく土地制度そのものを大きく変質させていく結果につながった。
政治経済752年(天平勝宝4年)
東大寺大仏開眼供養
国家の総力を挙げて造立された東大寺の盧舎那大仏の開眼供養が、盛大に執り行われた。
背景
藤原広嗣の乱や天然痘の流行などの社会不安を受け、聖武天皇は仏教による国家鎮護を強く願い、743年に大仏造立の詔を発して、国内で最も権威ある盧舎那仏の巨大な像を都に建立することを決意していた。
経緯
大仏の鋳造は多くの技術的困難を伴う大事業であり、行基らの協力も得ながら延べ260万人ともいわれる人々が動員され、多量の銅や金が用いられた。752年、聖武太上天皇や孝謙天皇、多くの貴族や僧侶、インドや唐からの渡来僧も参列する中、東大寺で盛大な開眼供養の儀式が執り行われ、大仏に目を入れる開眼師をインド出身の僧、菩提僊那が務めた。
結果・影響
東大寺大仏の完成は、律令国家が総力を挙げて成し遂げた一大事業として、天平文化の頂点を象徴する出来事となった。国家財政に大きな負担を与えたことも指摘されているが、この大仏は現在に至るまで奈良を代表する文化財として受け継がれている。
主な人物:聖武天皇,行基
文化政治754年(天平勝宝6年)
鑑真
唐の高僧鑑真が、5度の渡航失敗と失明を乗り越えて来日し、正式な戒律制度を伝えた。
背景
奈良時代の日本では、正式な資格を持たない僧侶が数多く存在しており、朝廷は戒律を授けることのできる正式な指導者を唐から招いて、僧侶に戒を授ける制度を整える必要性を感じていた。
経緯
唐の高僧であった鑑真は、日本からの招請に応じて渡航を決意したが、暴風雨や妨害などにより渡航は5度にわたって失敗し、その過程で鑑真は視力を失った。それでも渡航をあきらめず、753年に6度目の航海でついに日本にたどり着き、翌754年に平城京に入って聖武太上天皇らを迎えて正式な戒律を授けた。
結果・影響
鑑真の来日により、日本に正式な授戒の制度が整えられ、僧侶の資格が公的に保証される体制が確立された。鑑真はその後、唐招提寺を開いて戒律の教えを広め、彫刻や医薬の知識など大陸の進んだ文化も日本にもたらし、天平文化の発展に大きく貢献した。
主な人物:鑑真
文化外交764年(天平宝字8年)
恵美押勝の乱
太政大臣にまで昇った藤原仲麻呂(恵美押勝)が、孝謙上皇と対立して反乱を起こし敗死した。
背景
藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を背景に急速に権力を強め、恵美押勝の名を賜って太政大臣に相当する官職に就くなど絶大な権勢を誇っていたが、孝謙上皇が僧の道鏡を寵愛するようになると、両者の対立が深まっていった。
経緯
764年、孝謙上皇との対立が決定的となった藤原仲麻呂は、権力の維持を図って挙兵したが、朝廷側は迅速に対応してこれを鎮圧し、仲麻呂は近江国で敗死した。この反乱は仲麻呂の賜名にちなんで恵美押勝の乱と呼ばれている。乱の鎮圧後、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して自ら重祚し、称徳天皇として再び即位した。
結果・影響
恵美押勝の乱により藤原仲麻呂の権勢は完全に崩れ去り、代わって称徳天皇のもとで道鏡が急速に台頭することとなった。この政変は、奈良時代後期における政治の不安定さと、天皇・貴族・僧侶が入り乱れる権力闘争の激しさを象徴する事件として知られている。
主な人物:藤原仲麻呂
政治事件合戦769年(神護景雲3年)
宇佐八幡宮神託事件
僧の道鏡を天皇にせよとの神託が伝えられたが、和気清麻呂の報告により皇位継承は阻止された。
背景
称徳天皇の深い信任を得た僧の道鏡は太政大臣禅師、さらに法王という異例の地位にまで昇り、朝廷内で絶大な権力を握っていたが、皇族以外の人物が皇位に就くことは前例のない重大な問題であった。
経緯
769年、九州の宇佐八幡宮から「道鏡を皇位に就かせれば天下は太平になる」という神託が伝えられたとして、道鏡側はこれを利用して皇位継承を図ろうとした。称徳天皇は真偽を確かめるため和気清麻呂を宇佐へ派遣したが、清麻呂は現地で改めて「皇位には必ず皇族の者を立てるべきである」という神託を得たとして朝廷に報告し、道鏡の即位を阻止した。
結果・影響
この報告により道鏡は清麻呂を怒って左遷したが、翌770年に称徳天皇が没すると道鏡はただちに失脚し、下野国へ追放された。この事件は、僧侶が皇位を狙うという異例の事態が未然に防がれた出来事として、皇位継承における血統の重要性を改めて示す事例となり、後世まで語り継がれている。
主な人物:道鏡,和気清麻呂,称徳天皇
政治事件