1334年(建武元年)
建武の新政
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が自ら政治を行う天皇親政「建武の新政」を開始した。
背景
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、摂関政治や幕府による武家政治を否定し、天皇が直接政治を行う古代の親政に理想を求めていた。倒幕に功のあった足利尊氏や新田義貞、楠木正成ら武士たちは、その功績に見合う恩賞を期待していた。
経緯
1334年、後醍醐天皇は年号を建武と改め、自ら政務を統括する新政を開始した。記録所や雑訴決断所といった新たな機関を設けて所領関係の訴訟などを処理させたが、恩賞の配分は公家に偏り、武士の不満を招いた。また、土地所有権の確認にあたって混乱が生じるなど、性急な改革は社会に大きな摩擦を引き起こした。
結果・影響
武士の不満は急速に高まり、1335年に北条氏の残党が起こした中先代の乱の鎮圧を機に、足利尊氏は建武政権から離反した。1336年、尊氏は京都を制圧して新たな天皇を擁立し、後醍醐天皇は吉野に逃れて対抗したため、朝廷が二つに分裂する南北朝の動乱が始まることとなった。
主な人物:後醍醐天皇,足利尊氏
政治1338年(暦応元年)
室町幕府
足利尊氏が征夷大将軍に任じられ、京都に新たな武家政権である室町幕府を開いた。
背景
建武の新政に反発して挙兵した足利尊氏は、1336年に京都を制圧すると光明天皇を擁立し、建武式目を制定して新たな武家政治の方針を示した。一方で吉野に逃れた後醍醐天皇はなお正統性を主張し、朝廷は北朝と南朝の二つに分裂した状態が続いていた。
経緯
1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任命され、京都の室町に幕府を開いた。三代将軍足利義満の時代に幕府の権力機構は整備され、有力な守護大名を管領として幕政に参加させる守護大名連合的な性格を持つ政権として発展していった。
結果・影響
室町幕府は1573年に滅亡するまで約235年間続き、この間の時代は幕府の所在地にちなんで室町時代と呼ばれる。幕府は当初から南朝との対立や有力守護の自立傾向など不安定な要素を抱えており、後の応仁の乱を経て戦国時代へと向かう遠因ともなった。
主な人物:足利尊氏
政治1392年(明徳3年)
南北朝の合体
足利義満の仲介により南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位し、南北朝の分裂が解消された。
背景
足利尊氏の挙兵以来、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ状態が半世紀以上続いており、各地で両朝を奉じる勢力が抗争を繰り返していたが、南朝の勢力は次第に衰退し、幕府側の優位が明らかになっていった。
経緯
三代将軍足利義満は、守護大名の勢力を抑えて幕府権力を強化する一方、分裂した朝廷の統一にも取り組んだ。1392年、義満の仲介により南朝の後亀山天皇が三種の神器を北朝の後小松天皇に譲り渡す形で譲位し、両朝の統一(南北朝の合体)が実現した。統一にあたっては、以後両朝の皇統が交互に皇位に就く両統迭立の約束も交わされたとされるが、この約束は実際には守られなかった。
結果・影響
南北朝の合体により、約57年間続いた朝廷の分裂状態は解消され、室町幕府の政治的な基盤は大きく安定した。この後、義満は太政大臣にまで昇り、明との国交を開くなど、室町幕府の全盛期を築き上げていくこととなった。
主な人物:足利義満,後亀山天皇,後小松天皇
政治1397年(応永4年)
金閣
足利義満が、京都北山に舎利殿として金箔で覆われた金閣(鹿苑寺)を建立した。
背景
将軍職を子の義持に譲って実権を握り続けていた足利義満は、太政大臣にまで昇るなど公家社会でも最高の地位を得ており、その権勢を象徴する壮麗な山荘を京都北山の地に築こうとしていた。
経緯
1397年、足利義満は公家の西園寺家から譲り受けた別荘の地に北山殿を造営し、その中心的な建物として金箔で外壁を覆った三層の舎利殿、通称金閣を建てた。金閣は寝殿造・武家造・禅宗様という異なる建築様式を各層に取り入れた独特の構造を持ち、公家文化と武家文化、そして禅の精神が融合した室町文化(北山文化)を象徴する建物となった。
結果・影響
義満の死後、北山殿は遺言に従って禅寺とされ、鹿苑寺と名付けられた。金閣を中心とする北山文化は、この時代の日明貿易による経済的繁栄や禅宗の影響を色濃く反映しており、後の東山文化とあわせて室町時代を代表する文化として高く評価されている。
主な人物:足利義満
文化1404年(応永11年)
勘合貿易
足利義満が明の皇帝から「日本国王」に冊封され、勘合符を用いる日明貿易を開始した。
背景
14世紀後半、日本の海賊集団である倭寇が中国大陸や朝鮮半島の沿岸を頻繁に襲っており、新たに中国を統一した明は、日本に対して倭寇の取り締まりと朝貢を求めていた。足利義満は明との貿易による経済的利益に強い関心を寄せていた。
経緯
1401年、足利義満は明に使者を派遣して国交を開き、1402年には明の皇帝から「日本国王」として冊封された。1404年からは、正式な貿易船と倭寇を区別するための勘合符を用いる形式で、日明貿易(勘合貿易)が本格的に開始された。日本からは刀剣・銅・硫黄などが輸出され、明からは銅銭・生糸・書画などがもたらされ、幕府や有力守護、商人に大きな利益をもたらした。
結果・影響
勘合貿易は、明への朝貢という形式をとったことから国内で批判も招いたが、幕府の重要な財源として室町時代を通じて断続的に続けられた。この貿易を通じてもたらされた大量の明銭は日本国内の貨幣経済の発展を大きく後押しし、文化面でも大陸の影響を強く受けた室町文化の形成に寄与した。
主な人物:足利義満
外交経済1428年(正長元年)
正長の土一揆
近江の馬借の蜂起をきっかけに、近畿一帯の農民らが徳政を求めて土一揆を起こした。
背景
室町時代中期、京都周辺の農民や馬借(運送業者)は、高利貸しを営む土倉や酒屋からの借金に苦しんでおり、将軍の代替わりに際して徳政(借金の帳消し)を求める気運が高まっていた。
経緯
1428年、近江国坂本の馬借の蜂起をきっかけに、京都周辺の農民たちが土倉や酒屋を襲い、借用証文を破棄させて徳政を実力で要求する一揆を各地で起こした。一揆勢は「日本開白以来、土民蜂起是初也」と当時の日記に記されるほどの規模となり、近畿地方一帯に広がった。幕府は正式に徳政令を発することはなかったが、一部の地域では実質的に徳政が認められる事態となった。
結果・影響
正長の土一揆は、農民や庶民が実力行使によって自らの要求を通そうとした最初期の大規模な土一揆として、日本史上重要な位置を占めている。この後も室町時代を通じて徳政を求める土一揆はたびたび発生し、幕府もしばしば徳政令の発布に追い込まれるなど、民衆の実力行使が政治に影響を与える時代の到来を告げる出来事となった。
事件経済1441年(嘉吉元年)
嘉吉の乱
播磨の守護赤松満祐が、六代将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
背景
六代将軍足利義教は、有力守護大名の力を削いで将軍権力を強化しようとする強硬な政治姿勢をとっており、くじ引きで将軍に選ばれた経緯もあって「万人恐怖」と呼ばれるほど厳しい統制を敷き、多くの守護や公家がその粛清の対象になるのではないかと恐れていた。
経緯
1441年、播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐は、自らも粛清される危険を感じ、京都の自邸に足利義教を招いて祝宴を催すと見せかけ、その席で義教を謀殺した。赤松満祐はその後播磨に逃れて幕府軍と戦ったが、山名持豊(宗全)らの追討を受けて敗死し、赤松氏は一時没落した。
結果・影響
将軍が家臣によって暗殺されるという前代未聞の事件は幕府の権威を大きく失墜させ、将軍権力の強化を目指した義教の路線は頓挫した。この事件以降、幕府の求心力は急速に低下し、有力守護大名同士の対立が表面化しやすくなり、後の応仁の乱へとつながる政治的混乱の一因となった。
主な人物:足利義教,赤松満祐
政治事件1467年〜1477年(応仁元年〜文明9年)
応仁の乱
将軍家や有力守護家の後継争いが絡み合い、京都を主戦場に東西両軍が10年余り争った。
背景
八代将軍足利義政の後継をめぐり、弟の義視と実子の義尚を推す勢力が対立し、これに有力守護大名である細川勝元と山名宗全の勢力争い、さらに畠山氏・斯波氏の家督争いも絡み合って、幕府内の対立は複雑に絡み合っていった。
経緯
1467年、細川方(東軍)と山名方(西軍)はそれぞれ諸国の守護大名を巻き込んで京都で武力衝突し、御所や有力寺社を含む市街地の広範囲が戦火に巻き込まれた。戦乱は主要な指導者である細川勝元・山名宗全が相次いで病死した後も収まらず、1477年まで約11年間にわたって断続的に続いた。
結果・影響
応仁の乱によって京都の大部分は焼け野原となり、幕府の権威は決定的に失墜した。守護大名たちは在京する意味を失って領国に下り、家臣による下剋上が各地で相次ぐようになったことから、この乱は戦国時代の幕開けを告げる出来事として位置づけられている。
主な人物:足利義政,細川勝元,山名宗全
政治事件合戦1485年(文明17年)
山城国一揆
山城国南部で国人や農民が一揆を結び、争っていた守護大名畠山氏の軍勢を国外へ退去させた。
背景
応仁の乱後も山城国南部では、畠山政長と畠山義就という一族間の家督争いが続き、両軍の兵による戦闘や略奪が長期にわたって続いていたため、現地の国人や農民は疲弊し、両軍の撤退を強く望むようになっていた。
経緯
1485年、山城国南部の国人や農民たちは、身分の違いを越えて一揆を結成し、畠山政長・義就双方の軍勢に対して国外への撤退を要求した。両軍がこれに応じて退去すると、一揆勢は自らの手で国の掟を定め、月ごとに代表者を選んで合議によって統治を行う自治的な体制を8年間にわたって維持した。
結果・影響
山城国一揆は、農民や国人といった民衆が武力を背景に自治を実現した稀有な事例として高く評価されている。この一揆は1493年に守護に任じられた伊勢氏によって解体されたが、下剋上の風潮が強まる戦国時代の到来を象徴する出来事の一つとして、日本史上重要な位置を占めている。
政治事件1488年(長享2年)
加賀の一向一揆
加賀国で浄土真宗本願寺派の門徒らが一揆を起こし、守護富樫政親を滅ぼして自治を実現した。
背景
蓮如の布教によって浄土真宗(一向宗)が加賀国をはじめ北陸地方に急速に広まり、強い信仰の絆で結ばれた門徒たちは、守護大名の支配に対抗しうる大きな組織力を持つようになっていた。
経緯
1488年、加賀国の門徒や国人たちは、守護富樫政親と対立して一揆を起こし、政親の居城を攻め落として政親を自害に追い込んだ。以後、加賀国は本願寺門徒を中心とする勢力によって統治されるようになり、「百姓ノ持チタル国」と評されるほど、他に例を見ない自治的な支配体制が約100年間にわたって維持された。
結果・影響
加賀の一向一揆は、宗教的な結束力を背景に守護大名を打倒し、一国規模の自治を実現した稀有な事例として日本史上特筆される。この支配は1580年に織田信長方の柴田勝家によって鎮圧されるまで続き、一向一揆はその後も各地で戦国大名の脅威となる存在であり続けた。
主な人物:蓮如,富樫政親
政治事件合戦1489年頃(延徳元年)
銀閣
足利義政が、京都東山に質素で洗練された趣を持つ銀閣(慈照寺観音殿)を建立した。
背景
応仁の乱によって将軍権力の実質を失った足利義政は、政治への意欲を失い、京都東山の地に隠棲するための山荘を造営して、和歌や茶の湯、芸術に没頭する晩年を過ごそうとしていた。
経緯
義政は東山山荘の造営を進め、その中心的な建物として、金閣を模しながらも銀箔を用いず簡素な意匠でまとめられた観音殿、通称銀閣を建てた。あわせて造営された東求堂同仁斎には、床の間や違い棚、障子を備えた書院造の初期の形式がみられ、簡素・幽玄を重んじる禅の精神と結びついた東山文化を象徴する建築となった。
結果・影響
義政の死後、東山殿は禅寺とされ慈照寺と名付けられた。東山文化は、書院造や枯山水の庭園、水墨画、茶の湯や生け花など、今日の日本の伝統文化の原型となる要素を数多く生み出し、金閣に象徴される北山文化とあわせて、室町文化を代表する二大潮流として位置づけられている。
主な人物:足利義政
文化1543年(天文12年)
鉄砲伝来
種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲がもたらされ、日本各地に急速に広まった。
背景
大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国はアジアへの進出を進めており、ポルトガル人は中国船に乗って東アジア各地との交易を行っていたが、当時の日本は戦国大名同士の抗争が続いており、新兵器への需要が高まる素地があった。
経緯
1543年、暴風雨により種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持しており、島主の種子島時堯はこれを購入して家臣に製法を学ばせた。鉄砲の製造技術はまたたく間に紀伊国の根来や近江国の国友、和泉国の堺など各地の刀鍛冶に伝わり、国内でも大量に生産されるようになった。
結果・影響
鉄砲の伝来は、それまでの騎馬や弓矢を中心とした戦術を大きく変化させ、足軽による鉄砲隊の集団運用が合戦の勝敗を左右する重要な要素となっていった。鉄砲はまた築城技術にも影響を与え、平地に築かれ鉄砲での防御を重視した近世城郭が広まるなど、戦国時代後期の戦争のあり方を根本的に変える契機となった。
文化外交経済1547年(天文16年)
分国法
戦国大名が、領国を統治するための独自の法律である分国法を相次いで制定した。
背景
戦国大名は、室町幕府の権威にとらわれず自らの実力で領国を支配する必要に迫られており、家臣団の統制や領国内の秩序維持のため、御成敗式目などの武家法の伝統を踏まえつつ独自の法体系を整える動きが各地で広がっていた。
経緯
今川氏の「今川仮名目録」、大内氏の「大内氏掟書」、伊達氏の「塵芥集」など、各地の戦国大名は次々と分国法を制定した。1547年に武田信玄が制定した「甲州法度之次第」もその代表例で、喧嘩両成敗の原則や訴訟の手続き、家臣の統制に関する規定などが定められ、大名自身も法に従うべきことが明記されている点に特色があった。
結果・影響
分国法の制定は、戦国大名が領国内において独自の裁判権・立法権を持つ、いわば領域国家的な支配体制を築いていたことを示している。これらの法は御成敗式目の理念を受け継ぎつつ、戦国大名固有の家臣統制や軍事動員の必要性を反映したものであり、江戸幕府の法制にも影響を与えたとされる。
政治1549年(天文18年)
キリスト教伝来
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。
背景
大航海時代のカトリック教会は、宗教改革に対抗して海外布教を積極的に進めており、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、インドや東南アジアでの布教活動を経て、日本人ヤジロウとの出会いをきっかけに日本での布教を志すようになった。
経緯
1549年、ザビエルは鹿児島に上陸し、薩摩の島津氏の許可を得てキリスト教の布教を開始した。その後、山口や京都、豊後(大分)など各地を巡って布教を行い、約2年間の滞在中に一定の信者を獲得した。ザビエルの離日後もイエズス会の宣教師たちが布教を引き継ぎ、大村純忠や大友宗麟のように洗礼を受けるキリシタン大名も現れた。
結果・影響
キリスト教の伝来は、南蛮貿易を通じた鉄砲・火薬・西洋の学問や技術の流入とあわせて、日本社会に大きな影響を与えた。一方で急速に信者を増やしたキリスト教は、後に豊臣秀吉や江戸幕府による禁教・弾圧政策の対象ともなり、日本の宗教政策や対外関係を左右する重要な要素であり続けた。
主な人物:フランシスコ・ザビエル
文化外交1560年(永禄3年)
桶狭間の戦い
織田信長が、尾張に侵攻した今川義元の大軍を桶狭間で奇襲し、義元を討ち取った。
背景
駿河・遠江・三河を支配する今川義元は、上洛を目指して大軍を率い尾張への侵攻を開始した。対する尾張の織田信長は、義元の大軍に比べてはるかに少ない兵力しか動員できず、家中でも籠城か決戦かをめぐって議論が分かれる厳しい状況にあった。
経緯
1560年、今川軍は尾張領内の織田方の砦を次々と攻略しながら進軍し、桶狭間で休息をとっていた。信長は今川本隊の位置に関する情報を得ると、少数の兵で奇襲をかける決断を下し、豪雨に紛れて今川軍の本陣に突入した。不意を突かれた今川軍は混乱に陥り、義元は乱戦の中で討ち取られた。
結果・影響
桶狭間の戦いにおける勝利により、信長は東海地方における今川氏の脅威を退け、以後の勢力拡大の大きな足がかりを得た。この戦いは寡兵が大軍を打ち破った合戦として後世まで語り継がれ、信長が全国的な存在感を示す最初の転機となった出来事として広く知られている。
主な人物:織田信長,今川義元
合戦1561年(永禄4年)
川中島の戦い
甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の川中島で最大規模の激戦を繰り広げた。
背景
信濃国への進出を図る甲斐の武田信玄と、信濃の豪族を支援して信玄の勢力拡大を阻もうとする越後の上杉謙信は、1553年以降たびたび北信濃の川中島一帯で対峙を繰り返しており、両者の対立は雌雄を決する大規模な衝突へと発展していった。
経緯
1561年、武田・上杉両軍は第四次川中島の戦いと呼ばれる最大規模の合戦に及んだ。武田軍は別動隊で上杉方の本拠を攻めて挟撃を狙う啄木鳥戦法を用いたが、これを見破った上杉謙信の本隊が先に武田本陣に迫り、両軍は激しい死闘を繰り広げた。武田信玄の弟信繁や重臣山本勘助らが討死するなど、双方に大きな損害が出たが、決定的な勝敗はつかないまま両軍は兵を引いた。
結果・影響
五度におよんだ川中島の戦いは、いずれも決定的な決着に至らず、両者の対立は膠着状態が続いた。この長期にわたる抗争により武田・上杉両氏の勢力は北信濃に釘付けとなり、結果として織田信長など他の戦国大名が勢力を伸ばす時間的余裕を与えることとなったとも指摘されている。
主な人物:武田信玄,上杉謙信
合戦