1989年(平成元年)
消費税の導入
竹下登内閣のもとで税率3%の消費税が導入され、日本で初めて一般消費に広く課税された。
高齢化の進展に伴う社会保障費の増大が見込まれる中、直接税中心の税制では税収の安定確保が難しくなるとの懸念から、政府はかねて広く薄く負担を求める間接税の導入を検討していた。大平正芳内閣や中曽根康弘内閣も同様の税制導入を試みたが、国民の反発が強く実現には至らなかった。竹下登内閣は売上税構想の失敗を踏まえつつ税制改革を進め、1988年に消費税法を成立させ、1989年4月に税率3%の消費税が導入された。導入当初は事業者の価格転嫁の煩雑さや物価上昇への不安から反対も根強く、同年夏の参議院選挙で自民党は大敗した。その後消費税は財政再建と社会保障財源確保の柱として位置づけられ、1997年に5%、2014年に8%へと段階的に引き上げられ、日本の税制の中心的な仕組みとして定着していった。
主な人物:竹下登
政治経済1991年〜1993年頃(平成3年〜平成5年頃)
バブル崩壊
株価と地価が急落し、1980年代後半の資産バブルが崩壊、長期経済低迷が始まった。
1980年代後半、金融緩和を背景に株式と不動産への投機が過熱し、地価は実需とかけ離れた水準まで高騰していた。こうした過熱を懸念した日本銀行は1989年から段階的に金融を引き締め、大蔵省も1990年に不動産融資の総量規制を導入した。これを機に1990年初頭から株価が下落を始め、1991年頃には地価も反落に転じ、資産価格の急落、いわゆるバブル崩壊が明確になった。含み益を前提に融資や投資を拡大していた金融機関や企業は多額の不良債権を抱え込み、経済活動は急速に停滞した。政府や日銀の対応の遅れもあって不良債権処理は長引き、1990年代後半には大手金融機関の相次ぐ破綻という形で危機が表面化した。バブル崩壊以降の日本経済は物価と賃金が伸び悩む長期低迷期に入り、この期間は後に「失われた10年」、さらには「失われた20年」とも呼ばれるようになった。
経済1993年(平成5年)
55年体制の崩壊
自民党が分裂し総選挙で過半数割れ、非自民8党派による細川護熙連立内閣が発足した。
バブル崩壊後の経済停滞に加え、リクルート事件や佐川急便事件など相次ぐ政治とカネをめぐる不祥事により、自民党長期政権への国民の不信は高まっていた。1993年、政治改革をめぐる党内対立から自民党の一部議員が離党して新党を結成し、宮沢喜一内閣に対する内閣不信任決議案が可決されると、宮沢首相は衆議院を解散した。同年7月の総選挙で自民党は結党以来初めて単独過半数を割り込み、日本新党の細川護熙を首班とする非自民非共産の8党派連立政権が誕生した。これにより1955年の結成以来続いていた自民党一党優位の55年体制は事実上崩壊した。細川内閣は小選挙区比例代表並立制の導入などの政治改革を実現したが、連立内部の路線対立から短命に終わり、1994年には自民党が社会党・さきがけと連立を組んで政権に復帰する、いわゆる自社さ連立政権が誕生した。
主な人物:細川護熙
政治1995年(平成7年)
地下鉄サリン事件
オウム真理教が東京の地下鉄車内で猛毒ガスのサリンを散布し、13人が死亡する無差別テロ事件が起きた。
宗教団体オウム真理教は、教団施設に対する強制捜査の動きを察知すると、その混乱を狙って国家機関への攻撃を計画した。1995年3月20日、教団の信者らは東京都内の地下鉄丸ノ内線・日比谷線・千代田線の車両内で猛毒の神経ガス、サリンを散布し、乗客や駅員13人が死亡、6000人以上が重軽傷を負う無差別テロ事件を引き起こした。警視庁はこの事件を契機にオウム真理教への強制捜査に踏み切り、教祖の麻原彰晃をはじめとする教団幹部が次々と逮捕された。捜査の過程では、教団が1994年に長野県松本市で起こした松本サリン事件をはじめ、拉致や殺害事件への関与も次々と明らかになった。この事件は日本社会に化学兵器テロという新たな脅威への恐怖を植え付け、宗教団体に対する法規制の強化や、テロ対策・危機管理体制の見直しを促す大きな契機となった。
主な人物:麻原彰晃
事件1995年(平成7年)
阪神・淡路大震災
兵庫県南部を震源とする直下型地震が発生し、6000人以上が犠牲となる戦後最大級の被害を出した。
1995年1月17日未明、兵庫県南部を震源とするマグニチュード7.3の直下型地震が発生し、神戸市を中心に大阪府にかけて甚大な被害をもたらした。都市直下で発生した地震であったため、木造住宅の倒壊や高速道路の橋脚崩落、大規模な火災が相次ぎ、死者は6400人以上、住宅の全半壊は20万棟を超えるなど、戦後の地震災害としては最大級の被害となった。発災直後は自衛隊の出動要請をめぐる政府の初動対応の遅れが厳しく批判され、その一方でボランティアが全国から駆けつけて被災地支援にあたったことから、1995年は「ボランティア元年」とも呼ばれるようになった。この震災を契機に、耐震基準の強化や建物の耐震補強の義務化が進められ、また災害対策基本法の改正や緊急消防援助隊の創設など、日本の防災体制の見直しが大きく進むこととなった。
災害1997年(平成9年)
山一證券の廃業
四大証券の一角であった山一證券が巨額の簿外債務発覚により自主廃業し、金融不安が深刻化した。
バブル崩壊後、多くの金融機関が不良債権や損失を抱えていたが、山一證券は顧客企業の損失を帳簿から隠す、いわゆる飛ばしと呼ばれる手法で損失を先送りし、簿外債務として隠蔽を続けていた。1997年、アジア通貨危機の影響もあって金融市場の緊張が高まる中、山一證券は自主的な情報開示によって2600億円を超える簿外債務の存在を公表し、同年11月に自主廃業を決定した。四大証券会社の一つが経営破綻に追い込まれたことは市場に強い衝撃を与え、同じ時期に北海道拓殖銀行も経営破綻するなど、日本の金融システムに対する信頼は大きく揺らいだ。政府と日本銀行は金融システム全体の動揺を防ぐため、公的資金による金融機関への資本注入など異例の措置に踏み切った。この一連の金融危機は、その後の金融機関の再編・統合や、金融庁による監督体制の強化を促す転機となった。
経済事件2002年(平成14年)
2002 FIFAワールドカップ
日本と韓国が共催したサッカーワールドカップが開催され、日本代表は初のベスト16入りを果たした。
1996年、国際サッカー連盟は2002年のワールドカップ開催地として、単独開催を目指していた日本と韓国の双方を共同開催国として決定した。アジアで初めて開催されるワールドカップであり、両国は日韓共催という前例のない形式のもとで大会準備を進めた。2002年5月から6月にかけて両国で試合が行われ、日本代表は初出場となった1998年フランス大会に続く2度目の出場で、フィリップ・トルシエ監督のもとグループリーグを突破し、悲願の決勝トーナメント進出、ベスト16という当時の日本代表最高成績を残した。国内では各地でパブリックビューイングが行われるなど、サッカー熱がかつてなく高まり、日韓両国では大会を機に文化交流や相互理解を深めようとする動きも進んだ。この大会は日本国内におけるサッカー人気の定着とJリーグのさらなる発展を後押しする契機となった。
文化2002年(平成14年)
日朝首脳会談
小泉純一郎首相が平壌を訪問し、北朝鮮による日本人拉致を公式に認めさせた。
1970年代から80年代にかけて、北朝鮮の工作員によって多数の日本人が拉致される事件が相次いでいたが、北朝鮮政府は長らく関与を否定していた。2002年9月、小泉純一郎首相は現職首相として初めて北朝鮮を訪問し、平壌で金正日総書記と首脳会談を行った。会談で金正日は日本人拉致を初めて公式に認めて謝罪し、日朝平壌宣言に署名して国交正常化交渉の再開などが合意された。北朝鮮は拉致被害者のうち5人の生存を認めて帰国を認める一方、他の被害者については死亡したと説明し、この説明の真偽をめぐって日本国内では強い不信と批判が起こった。同年10月に帰国した5人の被害者はそのまま日本にとどまることとなり、拉致問題は以後、日朝間の懸案として国交正常化交渉の大きな障害であり続けている。この会談は北朝鮮問題に対する日本社会の関心を決定的に高める転機となった。
主な人物:小泉純一郎,金正日
外交事件2005年(平成17年)
郵政民営化
小泉純一郎内閣が郵政三事業を民営化する法案を成立させ、構造改革の象徴的政策とした。
小泉純一郎首相は「聖域なき構造改革」を掲げ、その中心政策として郵便貯金・簡易保険・郵便事業のいわゆる郵政三事業を民営化する方針を打ち出した。巨大な公的資金を背景とした郵便貯金・簡易保険の資金運用が財政投融資を通じて非効率な公共事業に流れる構造を改め、市場原理に基づく効率的な資金配分を実現することを狙いとした。しかし自民党内には郵政事業を支持基盤とする族議員による強い反対があり、2005年の法案採決では自民党から造反者が続出して参議院で否決された。小泉首相はこれを受けて衆議院を解散し、いわゆる郵政選挙で造反議員の選挙区に刺客候補を擁立するなど徹底した選挙戦を展開して圧勝し、その勢いで法案を成立させた。2007年に日本郵政公社は民営・分社化され、郵便局は日本郵便・ゆうちょ銀行・かんぽ生命保険などに再編された。
主な人物:小泉純一郎
政治経済2008年(平成20年)
リーマン・ショック
米国の大手投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻し、世界的な金融危機が発生した。
2000年代の米国では、低所得者向けの住宅ローンであるサブプライムローンが証券化されて世界中の金融機関に販売されていたが、住宅価格の下落とともに返済の焦げ付きが急増し、関連する金融商品の価値が急落していった。2008年9月、これらの証券化商品を大量に保有していた米国の大手投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻し、負債総額は当時としては史上最大規模に達した。この破綻をきっかけに世界の金融市場は深刻な信用収縮に陥り、株価が世界的に暴落するなど、世界金融危機へと発展した。日本の金融機関自体の証券化商品への直接的な関与は比較的限定的であったが、急激な円高と世界的な需要の落ち込みにより輸出企業を中心に業績が悪化し、日本経済も深刻な景気後退に見舞われた。この危機は各国政府・中央銀行による大規模な金融緩和や財政出動を促し、国際的な金融規制の見直しにもつながった。
経済2009年(平成21年)
民主党への政権交代
衆議院総選挙で民主党が圧勝し、鳩山由紀夫を首班とする本格的な政権交代が実現した。
2000年代後半、自民党政権下では小泉内閣退陣後に首相が相次いで交代して政治の安定性を欠き、格差拡大への不満や年金記録問題への批判なども重なって政権への信頼は揺らいでいた。野党第一党の民主党は「コンクリートから人へ」を掲げるマニフェストを提示して政権交代を訴え、2009年8月の衆議院総選挙で民主党は480議席中308議席を獲得する歴史的な圧勝を収めた。これにより非自民連立政権であった1993年の細川内閣とは異なり、単独政党による本格的な政権交代が初めて実現し、鳩山由紀夫を首相とする民主党中心の連立内閣が発足した。しかし普天間基地移設問題での迷走や党内対立などから鳩山内閣は短期間で退陣し、続く菅直人内閣は東日本大震災への対応に追われた。民主党政権は2012年の総選挙で自民党に大敗して下野し、3年余りで政権を手放すこととなった。
主な人物:鳩山由紀夫
政治2011年(平成23年)
東日本大震災
三陸沖を震源とする巨大地震と大津波が発生し、福島第一原発事故も重なる複合災害となった。
2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の日本観測史上最大の地震が発生し、これに伴う巨大津波が東北地方から関東地方にかけての太平洋沿岸を襲った。死者・行方不明者は1万8000人を超え、多くの沿岸集落が壊滅的な被害を受けた。さらに津波により東京電力福島第一原子力発電所の電源が失われて冷却機能を喪失し、炉心溶融と水素爆発を伴う深刻な原発事故が発生、広範囲に放射性物質が拡散して周辺住民は長期の避難を強いられた。地震・津波・原発事故が重なった未曾有の複合災害となり、政府の危機対応や原子力政策のあり方をめぐって厳しい検証が行われた。この震災を機に日本各地で原子力発電所が順次停止され、再生可能エネルギーの導入拡大や電力自由化が進められるなど、エネルギー政策全体の見直しにつながった。
災害2014年(平成26年)
消費税率8%への引き上げ
消費税率が5%から8%に引き上げられ、��会保障財源の確保が図られた。
少子高齢化の進行により社会保障給付費が急速に増大する中、その財源を安定的に確保するため、民主党の野田佳彦内閣は2012年に自民党・公明党との三党合意のもとで消費税率を段階的に引き上げる社会保障と税の一体改革関連法を成立させた。この合意に基づき、その後政権に復帰した安倍晋三内閣のもとで2014年4月、消費税率は5%から8%に引き上げられた。増税は財政健全化と社会保障制度の維持に不可欠とされた一方、駆け込み需要の反動による個人消費の落ち込みを招き、景気回復の勢いを削ぐ要因となったとの指摘もなされた。当初は2015年に10%へさらに引き上げる予定であったが、景気への影響を懸念した安倍内閣は増税を二度にわたって延期し、実際に10%への引き上げが実施されたのは2019年10月、元号が令和に改まった後のことであった。
主な人物:安倍晋三
経済政治2015年(平成27年)
安全保障関連法の制定
集団的自衛権の限定的な行使を可能とする安全保障関連法が成立し、戦後の安保政策が転換した。
安倍晋三内閣は、日本の安全保障環境が厳しさを増しているとの認識のもと、従来政府が憲法上行使できないとしてきた集団的自衛権について、2014年の閣議決定により一定の要件のもとで限定的に行使を認める方針へと解釈を変更した。これを法制化するため、2015年に自衛隊法や武力攻撃事態法など既存の法律を一括改正する平和安全法制整備法と、新たな国際平和支援法からなる安全保障関連法が国会に提出された。憲法学者の多くが違憲の疑いを指摘し、国会周辺では連日大規模な反対デモが行われるなど強い批判が起こったが、安倍内閣は同年9月に参議院本会議で法案を可決・成立させた。この法制定により、日本と密接な関係にある他国が攻撃を受けた際に自衛隊が武力を行使できる存立危機事態の概念が新設されるなど、戦後日本の安全保障政策の大きな転換点となった。
主な人物:安倍晋三
政治2019年(平成31年)
明仁の退位
天皇明仁が退位し皇太子徳仁親王が即位、約200年ぶりの譲位により元号は令和に改まった。
天皇明仁は高齢と健康上の理由から、2016年にビデオメッセージを通じて自らの意向を国民に示し、生前退位への強い意志をにじませた。日本国憲法下では天皇の退位を定めた制度がなかったため、政府は有識者会議での議論を経て、明仁一代に限り退位を認める特例法を制定し、2017年に成立させた。これに基づき2019年4月30日、明仁は退位して上皇となり、翌5月1日に皇太子徳仁親王が新たに天皇として即位した。江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりとなる天皇の生前退位であり、崩御に伴わない皇位継承は近代の皇室典範制定後では初めてのことであった。同時に元号は平成から令和へと改められ、改元に際しては新元号の典拠を中国古典ではなく日本最古の歌集である万葉集に求めた点も注目を集めた。これにより約30年間続いた平成の時代は幕を閉じた。
主な人物:明仁
政治