1603年(慶長8年)
江戸幕府開府
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。
背景
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国の大名を実質的に統率する地位を確立していたが、豊臣秀頼はなお大坂城に健在であり、武家の棟梁としての地位を公式に示すためには、朝廷から征夷大将軍に任命される必要があった。
経緯
1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、居城のあった江戸に幕府を開いた。家康はわずか2年後の1605年には将軍職を子の秀忠に譲り、徳川家による将軍職の世襲を早々に既成事実化した。江戸には諸大名の屋敷や町人地が整備され、参勤交代の制度化とあわせて急速に日本最大級の都市へと発展していくこととなった。
結果・影響
江戸幕府の成立により、日本は260年以上にわたる長期の安定政権のもとに置かれることとなった。幕府は大名を統制する幕藩体制を築き上げ、鎖国政策や身分制度の確立などを通じて、近世日本の基本的な社会秩序を形づくっていくこととなる。
主な人物:徳川家康
政治1613年(慶長18年)
禁教令
江戸幕府が、全国を対象にキリスト教の信仰を禁じる禁教令を発した。
背景
豊臣秀吉の時代からキリスト教は警戒の対象とされていたが、江戸幕府も貿易の利益を重視して当初は黙認する姿勢をとっていた。しかし、キリスト教の信仰が幕藩体制の身分秩序や封建的な主従関係と相容れない面を持つことや、宣教師を通じた西洋列強の影響力拡大への懸念が次第に強まっていった。
経緯
1612年に幕府直轄領で禁教令を発した幕府は、1613年には全国に対象を広げ、キリスト教の信仰と布教を全面的に禁止した。教会は破壊され、宣教師や信者の国外追放、改宗を拒む者への処罰が進められた。信者の中には信仰を捨てて改宗する者もいた一方、隠れて信仰を守り続ける潜伏キリシタンと呼ばれる人々も各地に現れた。
結果・影響
禁教令はその後の鎖国政策の重要な柱の一つとなり、1637年の島原の乱を経て、幕府はキリスト教徒に対する統制と貿易統制の両面をさらに強化していくこととなった。江戸時代を通じて宗門改めや寺請制度が整備され、仏教寺院を通じて民衆を管理する仕組みが定着していった。
政治文化1614年〜1615年(慶長19年〜慶長20年)
大坂の陣
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻め滅ぼし、大坂冬の陣・夏の陣を経て豊臣家は滅亡した。
背景
関ヶ原の戦い後も大坂城には豊臣秀頼が健在で、なお一定の権威と経済力を保持していた。徳川家康は豊臣家を完全に排除して徳川政権の安定を図ろうとし、方広寺鐘銘事件などを口実に豊臣家との対立を先鋭化させていった。
経緯
1614年、家康は大坂城を大軍で包囲する大坂冬の陣を起こしたが、堅固な城構えに阻まれて攻略できず、いったん和議を結んで外堀を埋め立てさせた。翌1615年、防御力を失った大坂城に対して再び大軍を差し向ける大坂夏の陣が行われ、真田幸村(信繁)らの奮戦もあったが豊臣方は敗れ、秀頼とその母淀殿は自害し、豊臣家は滅亡した。
結果・影響
大坂の陣により、家康は最後の対抗勢力であった豊臣家を完全に排除し、徳川氏による全国支配を盤石なものとした。この後、幕府は元和偃武と呼ばれる平和な時代の到来を宣言し、武家諸法度の制定を通じて大名統制の体制を本格的に整えていくこととなった。
主な人物:徳川家康,豊臣秀頼,真田信繁
合戦政治1615年(元和元年)
武家諸法度
江戸幕府が、大名を統制するための法令「武家諸法度」を初めて制定した。
背景
大坂の陣によって最後の対抗勢力であった豊臣家を滅ぼした徳川家康は、諸大名を恒久的に統制し、再び戦乱が起こらないようにするための法的な枠組みを整える必要があると考えていた。
経緯
1615年、幕府は諸大名を対象とする武家諸法度(元和令)を制定した。無許可での城の新築や修築の禁止、大名間の婚姻の許可制、法令や礼儀の遵守などが定められ、違反した大名には改易や減封といった厳しい処分が科された。三代将軍徳川家光の時代の1635年には参勤交代の義務化などを盛り込んだ改訂(寛永令)が行われ、以後も将軍の代替わりごとに改訂が重ねられていった。
結果・影響
武家諸法度は、江戸幕府が大名を統制する基本法として機能し、多くの大名家がこの法令違反を理由に改易・減封の処分を受けた。この法令を通じた大名統制は、幕府が260年以上にわたって全国支配を維持する上での重要な制度的基盤となった。
主な人物:徳川家康
政治1635年(寛永12年)
参勤交代
三代将軍徳川家光が武家諸法度を改訂し、大名に江戸と領国を1年おきに往復させる参勤交代を制度化した。
背景
大名が将軍に対して定期的に出仕することは江戸時代初期から慣習として行われていたが、これを法的な義務として明確化することで、大名の経済力や軍事力を抑制し、幕府への服従を確実なものにする狙いがあった。
経緯
1635年、徳川家光は武家諸法度を改訂し、大名が1年ごとに江戸と自らの領国とを往復し、正室と後継ぎを江戸屋敷に常駐させることを義務づけた。大名は多数の家臣を伴う大規模な行列を組んで江戸と領国を往復しなければならず、この移動や江戸での生活には多額の費用がかかった。
結果・影響
参勤交代の制度化は、大名の財政を圧迫することで反乱の芽を事前に摘む効果を持つと同時に、街道や宿場町の整備、江戸を中心とする経済・文化の全国的な流通を促進する副次的な効果ももたらした。この制度は江戸時代を通じて維持され、幕藩体制を支える重要な柱の一つとなり続けた。
主な人物:徳川家光
政治1637年〜1638年(寛永14年〜寛永15年)
島原の乱
重税とキリシタン弾圧に苦しむ島原・天草の農民らが天草四郎を擁して蜂起した。
背景
島原藩や天草の領主は、苛烈な年貢の取り立てとキリシタンへの厳しい弾圧を行っており、これに苦しむ農民や、改易された大名の旧家臣、潜伏していたキリシタンたちの間に強い不満が蓄積していた。
経緯
1637年、島原・天草地方の農民らは天草四郎(益田時貞)を総大将に擁して一斉に蜂起し、廃城となっていた原城に立てこもって幕府軍に抵抗した。一揆勢は約3万7千人ともいわれる規模に達し、幕府は老中松平信綱を派遣して大軍で城を包囲、オランダ船の砲撃支援も受けながら、翌1638年にようやく原城を落として一揆を鎮圧した。一揆勢はほぼ全員が殺害されたと伝えられている。
結果・影響
島原の乱は江戸時代最大の農民一揆であり、幕府に大きな衝撃を与えた。この事件を機に幕府はキリスト教への警戒をさらに強め、ポルトガル船の来航禁止など鎖国政策を一段と徹底させる直接のきっかけとなり、以後幕末まで大規模な内戦は起こらない平和な時代が続くこととなった。
主な人物:天草四郎,松平信綱
事件合戦政治1639年(寛永16年)
鎖国
幕府がポルトガル船の来航を禁止し、オランダ・中国に限定した対外貿易の統制体制が完成した。
背景
島原の乱でキリスト教徒の強い結束力を目の当たりにした幕府は、宣教活動を伴う貿易相手国との関係を危険視するようになり、貿易の利益を維持しつつキリスト教の影響を排除する方策を模索していた。
経緯
幕府は1633年以降、奉書船以外の海外渡航禁止や日本人の帰国禁止など段階的に対外関係を統制する法令を重ね、1639年にはついにポルトガル船の来航を全面的に禁止した。これにより、対外貿易はキリスト教布教を伴わないオランダと中国(清)に限定され、その窓口も長崎の出島などに厳しく限定された。朝鮮とは対馬藩を、琉球とは薩摩藩を、蝦夷地とは松前藩を介した交流が維持された。
結果・影響
この対外統制体制は後に「鎖国」と呼ばれるようになり、幕末の開国まで約200年間にわたって維持された。完全な国交断絶ではなかったものの、幕府が対外交流を厳しく管理することで、国内の政治的安定と幕府による貿易利益の独占を図る体制が確立されることとなった。
外交政治1651年(慶安4年)
慶安の変
兵学者由井正雪が、浪人救済を掲げて幕府転覆を図ったが計画は事前に発覚し失敗した。
背景
江戸時代初期、大名の改易・減封が相次いだことで、主家を失い生活の糧を失った浪人が数多く生まれており、こうした浪人たちの不満は幕府に対する潜在的な脅威となっていた。兵学者の由井正雪は、こうした浪人たちを糾合して幕府転覆を計画した。
経緯
1651年、四代将軍徳川家綱がまだ幼少であった時期を狙い、由井正雪は丸橋忠弥らとともに江戸・駿府・大坂で同時に蜂起し、幕府の要人を殺害して政権を奪取する計画を立てた。しかし計画は事前に幕府に密告され、正雪は駿府で追い詰められて自害し、丸橋忠弥ら関係者も捕らえられて処刑された。
結果・影響
この事件(慶安の変)は、大名の改易政策が多くの浪人を生み出し社会不安の温床となっている現実を幕府に突きつけるものとなった。これを機に幕府は、末期養子の禁の緩和など大名の改易をできるだけ避ける方向へと政策を転換し、浪人問題の緩和と社会の安定化を図るようになった。
主な人物:由井正雪
政治事件1685年(貞享2年)
生類憐みの令
五代将軍徳川綱吉が、動物の殺生を禁じ生命を尊重させる生類憐みの令を発した。
背景
五代将軍徳川綱吉は儒学を重んじ、仁政による統治を理想としており、戦国時代以来の殺伐とした気風を改め、生命を尊ぶ社会風潮を醸成しようとする意図から、動物愛護に関する一連の法令を発するようになった。
経緯
1685年頃から綱吉は、犬をはじめとする動物の殺生や虐待を禁じる法令を次々と発布した。特に犬に対する保護は徹底しており、江戸郊外には広大な犬小屋が設けられて多数の野良犬が収容された。法令は次第に対象を拡大し、魚や鳥、さらには病人や捨て子の保護にまで及ぶようになったが、違反者には厳しい処罰が科されたため、庶民の生活に大きな負担を強いる結果ともなった。
結果・影響
生類憐みの令は、当初の理念とは裏腹に庶民から強い反発を招き、綱吉の死後まもなく大部分が廃止された。一方で、捨て子や病人の保護規定は、弱者救済の観点から一定の積極的な意義を持っていたとする再評価も近年では行われており、江戸時代の社会政策を考える上で議論の対象となり続けている。
主な人物:徳川綱吉
政治1688年〜1704年頃(元禄年間)
元禄文化
上方を中心に、町人層の経済力を背景とした華やかな元禄文化が花開いた。
背景
江戸時代前期、幕藩体制のもとで社会が安定すると、農業生産力の向上や商業の発達によって経済が大きく成長し、大坂・京都を中心とする上方の町人層が豊かな経済力を蓄えるようになった。
経緯
五代将軍徳川綱吉の治世にあたる元禄年間、経済力を背景とした町人文化が花開いた。俳諧では松尾芭蕉が「奥の細道」に代表される紀行文や句を残し、浮世草子では井原西鶴が「好色一代男」などで町人の生活を生き生きと描いた。近松門左衛門は「曽根崎心中」などの人形浄瑠璃の脚本で人気を博し、絵画では尾形光琳が装飾的な琳派の様式を大成するなど、多彩な分野で優れた芸術家が活躍した。
結果・影響
元禄文化は、公家や武士だけでなく町人層が担い手となった点に大きな特色があり、江戸時代の文化がそれまでの貴族・武家中心のあり方から大きく転換したことを示している。この文化はその後の化政文化にも影響を与え、庶民が文化の担い手として台頭していく江戸時代の社会的変化を象徴する現象として評価されている。
主な人物:松尾芭蕉,井原西鶴,近松門左衛門
文化経済1702年(元禄15年)
赤穂事件
主君浅野長矩の仇討ちのため、大石内蔵助ら赤穂浪士47人が吉良義央の屋敷に討ち入った。
背景
1701年、播磨赤穂藩主浅野長矩は江戸城内で高家旗本の吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こし、この責任を問われて即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易された。一方吉良義央にはお咎めがなかったことから、赤穂藩の旧家臣たちの間には強い不満が残った。
経緯
筆頭家老であった大石内蔵助は、浅野家の再興を幕府に願い出たが叶わず、1702年、大石をはじめとする赤穂浪士47人は江戸の吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち取って主君の仇を討った。浪士たちはその後幕府に自首し、翌1703年、忠義を尽くした行為である一方で幕府の法度に反する私闘であるとして、全員に切腹が命じられた。
結果・影響
この事件は「忠臣蔵」として後の歌舞伎や浄瑠璃、小説などで繰り返し取り上げられ、日本を代表する忠義の物語として広く親しまれるようになった。幕府内でも浪士たちの処遇をめぐり、儒学者の間で法と道徳のどちらを優先すべきかの論争が起こるなど、当時の武士の倫理観をめぐる議論を巻き起こした事件としても知られている。
主な人物:大石内蔵助,浅野長矩,吉良義央
事件1709年〜1716年(宝永6年〜正徳6年)
正徳の治
朱子学者新井白石が、六代・七代将軍を補佐して儒学の理念に基づく政治改革を進めた。
背景
五代将軍徳川綱吉の治世末期には、生類憐みの令による社会の疲弊や、貨幣の改鋳による物価上昇など、さまざまな問題が積み重なっていた。六代将軍徳川家宣は、儒学者新井白石を側近に登用し、綱吉時代の政治を見直す改革に着手させた。
経緯
新井白石は1709年から家宣・家継の二代の将軍を補佐し、生類憐みの令の廃止、質を落としていた貨幣の改鋳による正貨への復帰、朝鮮通信使の待遇簡素化、長崎貿易における金銀流出を抑制する海舶互市新例の制定など、財政と外交の両面にわたる改革を推し進めた。学者らしい理念に基づく政治手法から、この改革は正徳の治と呼ばれている。
結果・影響
新井白石の改革は、儒学的な理想を重視するあまり実務面で反発を招く面もあったが、貨幣の質を回復させて経済の混乱を収拾するなど一定の成果を上げた。しかし1716年に七代将軍家継が幼くして没すると白石は失脚し、代わって紀州藩から迎えられた徳川吉宗のもとで、より実務的な享保の改革が進められていくこととなった。
主な人物:新井白石
政治経済1716年〜1745年(享保元年〜延享2年)
享保の改革
八代将軍徳川吉宗が、財政再建と幕政の立て直しを目指す享保の改革を主導した。
背景
江戸幕府の財政は、参勤交代の負担や貨幣経済の浸透による支出増大などにより次第に悪化しており、紀州藩から八代将軍に迎えられた徳川吉宗は、この危機的な財政状況を立て直すための抜本的な改革の必要性に迫られていた。
経緯
徳川吉宗は、大名から石高に応じて米を上納させる上げ米の制、新田開発の奨励、質素倹約の徹底といった財政再建策を進める一方、庶民の意見を政治に反映させるための目安箱の設置、公正な裁判基準を定めた公事方御定書の制定、実学を奨励する漢訳洋書輸入制限の緩和など、幅広い分野にわたる改革を実施した。米価の安定にも力を注いだことから「米将軍」とも呼ばれた。
結果・影響
享保の改革は一定の財政再建の成果を上げ、幕府の政治を立て直す江戸時代最初の本格的な改革として、後の寛政の改革・天保の改革とあわせて「三大改革」の一つに数えられている。この改革を通じて確立された統治手法や制度は、以後の幕政運営の基本的な枠組みとして長く受け継がれていくこととなった。
主な人物:徳川吉宗
政治経済1772年〜1786年(安永元年〜天明6年)
田沼時代
老中田沼意次が、商業を重視した積極的な経済政策で幕府財政の立て直しを図った。
背景
享保の改革以降も幕府財政の根本的な改善には至らず、米を基本とする年貢収入だけに依存する体制には限界が見えていた。老中となった田沼意次は、成長を続ける商業経済を活用して財政を再建しようとする、従来とは異なる発想の政策を打ち出していった。
経緯
田沼意次は、商工業者の同業組合である株仲間の結成を奨励して営業税を徴収したほか、長崎貿易の拡大や蝦夷地の開発計画、印旛沼の干拓事業など、商業・開発を重視した積極的な経済政策を推進した。この政策により幕府財政は一時的に改善し、商業や文化も活況を呈したが、一方で賄賂や縁故による人事が横行し、政治の腐敗が進んだとの批判も強まっていった。
結果・影響
田沼意次の政治は、天明の大飢饉による社会不安の高まりや、賄賂政治への批判の中で1786年に意次が失脚したことで幕を閉じた。その商業重視の政策は後世再評価される面もあるが、当時は「賄賂政治」の代名詞として厳しく批判され、後継の松平定信による寛政の改革では、田沼時代の政策を否定する方向で緊縮的な改革が進められることとなった。
主な人物:田沼意次
政治経済1787年〜1793年(天明7年〜寛政5年)
寛政の改革
老中松平定信が、田沼時代の政治を改め質素倹約と農村復興を重視する寛政の改革を進めた。
背景
田沼意次の失脚後、天明の大飢饉による深刻な社会不安や、田沼時代の商業重視政策への反発を背景に、老中となった松平定信は、儒学的な理念に基づく質素倹約と農村社会の立て直しを重視する政治への転換を図った。
経緯
1787年に老中となった定信は、飢饉に備えて各地に米を蓄えさせる囲米の制、旗本・御家人の借金を帳消しにする棄捐令、農村から江戸に流入した人々を帰農させる旧里帰農令などを実施した。また朱子学以外の学問を異端とする寛政異学の禁を出して思想統制を強めるなど、幅広い分野で厳格な統制策を打ち出した。
結果・影響
寛政の改革は一定の財政再建と社会秩序の回復をもたらしたが、あまりに厳格な統制は庶民や武士の反発を招き、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と風刺されるほどであった。定信はわずか6年余りで老中を退いたが、この改革は享保の改革・天保の改革とあわせて江戸幕府の三大改革の一つとされている。
主な人物:松平定信
政治経済文化・文政期(19世紀初頭)頃(文化11年)
化政文化
江戸を中心に、浮世絵や庶民文学など多彩な町人文化「化政文化」が花開いた。
背景
江戸時代後期、寛政の改革によって一時抑えられた町人文化は、経済の回復とともに再び活況を呈するようになり、政治や経済の中心地であった江戸において、上方の元禄文化とは異なる新しい町人文化が育まれていった。
経緯
文化・文政年間を中心に栄えたこの文化は化政文化と呼ばれ、浮世絵では葛飾北斎が「富嶽三十六景」を、歌川広重が「東海道五十三次」を描くなど、風景版画の傑作が数多く生み出された。文学では十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」といった滑稽本・読本が庶民に広く読まれ、寺子屋の普及によって高まった識字率もこうした出版文化の発展を後押しした。
結果・影響
化政文化は、江戸という都市を舞台に庶民の娯楽や実用性を重視した点に特色があり、浮世絵はその後ヨーロッパの印象派の画家たちにも影響を与えるなど、国際的にも高く評価される日本文化の一翼を担うこととなった。元禄文化とあわせて、江戸時代における町人文化の二つの頂点として位置づけられている。
主な人物:葛飾北斎,歌川広重,十返舎一九
文化1825年(文政8年)
異国船打払令
幕府が、日本近海に接近する外国船を無条件で砲撃し撃退するよう命じる異国船打払令を発した。
背景
19世紀に入るとロシアやイギリスなどの外国船が日本近海にたびたび出没するようになり、1808年にはイギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入する事件も起こるなど、幕府は対外的な警戒を強めていた。
経緯
1825年、幕府は日本近海に接近する外国船を発見した場合、事情を問わず即座に砲撃して撃退することを命じる異国船打払令(無二念打払令)を発布した。この強硬な方針は、漂着した外国船の乗組員に対しても例外なく適用されることとされ、対外関係における幕府の排外的な姿勢を強く示すものとなった。
結果・影響
この法令のもとで1837年には日本人漂流民の送還と通商交渉のために来航したアメリカ商船モリソン号が砲撃されるモリソン号事件が起こり、この対応を批判した蘭学者の渡辺崋山や高野長英が処罰される蛮社の獄が起こるなど、国内でも対外政策をめぐる論争を引き起こした。1840年のアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを受け、幕府は1842年にこの法令を緩和し、薪水給与令に転換することとなった。
政治外交1837年(天保8年)
大塩平八郎の乱
元大坂町奉行所与力の大塩平八郎が、天保の飢饉で苦しむ民衆救済を掲げて大坂で挙兵した。
背景
天保年間、全国的な飢饉により米価が高騰し多くの民衆が困窮する一方、大坂町奉行所は買い占めた米を江戸へ優先的に回送するなど、飢饉対策に十分な効果を上げられずにいた。陽明学者でもあった元与力の大塩平八郎は、こうした奉行所の対応に強い憤りを抱いていた。
経緯
1837年、大塩平八郎は私財を投じて集めた資金で困窮する民衆を救済しようとしたが十分な効果を上げられず、ついに自ら門弟や近隣の農民らを率いて武装蜂起し、豪商を襲撃して大坂の一部を焼き払った。しかし乱はわずか半日で鎮圧され、大塩自身は潜伏の後に自害した。
結果・影響
幕府の元役人が公然と反乱を起こしたこの事件は、幕府に大きな衝撃を与えた。同年には越後柏崎でも大塩の門弟を名乗る生田万が蜂起するなど影響が各地に波及し、幕府の統治能力に対する信頼が大きく揺らいだ。この事件は、老中水野忠邦による天保の改革を後押しする一因ともなった。
主な人物:大塩平八郎
政治事件1841年〜1843年(天保12年〜天保14年)
天保の改革
老中水野忠邦が、幕府権力の立て直しを図り倹約や統制を強化する天保の改革を実施した。
背景
大塩平八郎の乱やアヘン戦争での清の敗北など、内外の情勢に強い危機感を抱いた老中水野忠邦は、幕府の権威と財政基盤を立て直すため、享保・寛政の改革にならった厳格な統制策を打ち出そうとした。
経緯
1841年から水野忠邦は、奢侈を禁じる倹約令、物価の高騰を招いていたとみなした株仲間の解散、江戸に流入した農民を村へ強制的に帰す人返しの法などを次々と実施した。さらに江戸・大坂周辺の土地を幕府直轄地にしようとする上知令を打ち出したが、これは対象となる大名・旗本の強い反発を招いた。
結果・影響
天保の改革は、あまりに急進的で強引な統制策への反発が大名・旗本から庶民に至るまで広範囲に及び、上知令の撤回に追い込まれた水野忠邦はわずか2年余りで失脚した。享保・寛政・天保の三大改革はいずれも幕府権力の立て直しを目指したが、根本的な財政・社会構造の問題を解決するには至らず、幕府の権威はむしろ低下し続け、やがて幕末の動乱期を迎えることとなった。
主な人物:水野忠邦
政治経済1853年(嘉永6年)
黒船来航
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦を率いて浦賀に来航し、開国を要求した。
背景
欧米列強はアジアへの進出を強めており、太平洋を横断する航路の中継地や捕鯨船の補給地として、鎖国を続ける日本に開国を求める必要性が高まっていた。アメリカ大統領の国書を携えたペリーは、開国交渉のため日本へ派遣された。
経緯
1853年、ペリーは4隻の軍艦(いわゆる黒船)を率いて浦賀沖に来航し、フィルモア大統領の国書を幕府に提出して開国を強く求めた。当時の日本人にとって蒸気機関を備えた黒船は驚異的な存在であり、江戸の町は大きな騒動に包まれた。ペリーは一旦退去したが、翌年再び来航して回答を求めることを予告して立ち去った。
結果・影響
黒船来航は、200年以上続いた鎖国政策の限界を幕府と国内世論に強く突きつける出来事となった。幕府は前例のないことに諸大名や朝廷にも意見を求めるなど対応に苦慮し、これをきっかけに朝廷の権威が政治の場で急速に高まっていくとともに、開国の是非をめぐる国内の対立が尊王攘夷運動へと発展し、幕末の動乱の幕開けを告げる出来事となった。
外交1854年(嘉永7年)
日米和親条約
再来航したペリーとの交渉の末、幕府は下田・箱館の開港を認める日米和親条約を締結した。
背景
前年に来航して開国を求めたペリーは、幕府の回答を求めて1854年に再び来航した。幕府内では強硬な攘夷論と、軍事力の差を踏まえた開国やむなしとの現実論が対立していたが、圧倒的な軍事力を背景にした交渉を前に、開国を受け入れざるを得ないとの判断が優勢となっていった。
経緯
1854年、幕府はペリーとの交渉の末、日米和親条約を締結した。この条約により、下田と箱館の2港が開かれてアメリカ船への燃料・食料などの補給が認められ、漂流民の保護や領事の駐在などが定められたが、自由な貿易を認めるものではなかった。その後同様の条約がイギリス・ロシア・オランダとの間にも結ばれた。
結果・影響
日米和親条約の締結により、200年以上続いた鎖国体制は事実上終わりを告げた。この条約はまだ本格的な通商を認めるものではなかったが、4年後の1858年に締結される日米修好通商条約への足がかりとなり、この開国をめぐる幕府の対応は、朝廷の権威の高まりや尊王攘夷運動の激化を招き、幕末の政局を大きく動かす契機となった。
外交1858年〜1859年(安政5年〜6年)
安政の大獄
大老井伊直弼が、将軍継嗣問題や条約調印に反対する尊王攘夷派の大名・志士を厳しく弾圧した。
背景
日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題をめぐり、大老井伊直弼は朝廷の勅許を得ないまま条約に調印し、独断的な政治運営を進めていたため、これに反発する尊王攘夷派の大名や公家、志士たちとの対立が急速に深まっていた。
経緯
1858年から翌1859年にかけて、井伊直弼は反対派に対する徹底した弾圧を行った。一橋派の大名であった徳川斉昭・松平慶永らは処罰され、吉田松陰や橋本左内など尊王攘夷運動を主導した志士たちも次々と捕らえられ、多くが死罪や遠島などの厳しい処分を受けた。この一連の弾圧は安政の大獄と呼ばれ、100人以上が処罰の対象となったとされる。
結果・影響
安政の大獄による強権的な弾圧は、尊王攘夷派の間に井伊直弼への強い憎悪を生み、翌1860年の桜田門外の変で直弼が暗殺される直接の要因となった。この事件を境に幕府の権威はさらに低下し、朝廷や雄藩の発言力が強まっていく公武合体・尊王攘夷運動の激化へとつながっていった。
主な人物:井伊直弼,吉田松陰
政治事件1860年(安政7年/万延元年)
桜田門外の変
江戸城桜田門外で、水戸藩などの浪士らが大老井伊直弼を襲撃し暗殺した。
背景
安政の大獄による厳しい弾圧に強い反発を抱いた水戸藩の尊王攘夷派浪士らは、弾圧の中心人物であった大老井伊直弼への報復を計画していた。水戸藩からは処分を受けた藩士も多く、藩内には直弼に対する憎悪が渦巻いていた。
経緯
1860年、井伊直弼が江戸城へ登城する途中、桜田門外において水戸藩などの浪士十数名が襲撃し、直弼を殺害した。降りしきる雪の中で行われたこの襲撃は周到に計画されたもので、直弼の行列は不意を突かれてほとんど抵抗できないまま主君を討たれる結果となった。
結果・影響
現職の大老が城門外で白昼堂々と暗殺されるという前代未聞の事件は、幕府の権威を大きく失墜させた。この事件以降、幕府は強硬な弾圧路線を維持できなくなり、朝廷との協調を模索する公武合体路線への転換を余儀なくされる一方、尊王攘夷運動はさらに勢いを増し、幕末の政局は一層流動化していくこととなった。
主な人物:井伊直弼
政治事件1863年(文久3年)
薩英戦争
生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島を砲撃し、薩摩藩と交戦した。
背景
1862年、薩摩藩主の父島津久光の行列を横切ったイギリス人を藩士が殺傷する生麦事件が起こり、イギリスは幕府と薩摩藩に対して謝罪と賠償を要求したが、薩摩藩はこれに強く反発し交渉は決裂した。
経緯
1863年、イギリスは軍艦7隻からなる艦隊を鹿児島湾に派遣し、薩摩藩との交渉が不調に終わると鹿児島の市街地を砲撃した。薩摩藩も砲台から応戦し、双方に相応の被害が出る戦闘となったが、イギリス側も台風による損害や旗艦艦長の戦死などを受けて撤退し、戦闘は事実上引き分けに近い形で終結した。
結果・影響
この戦いを通じて薩摩藩は西洋列強の軍事力を実感し、攘夷が非現実的であることを痛感して、以後はイギリスとの関係を修復しつつ軍備の近代化を進める現実路線へと大きく転換した。この経験は薩摩藩が倒幕運動において重要な役割を果たしていく上での大きな転機となり、同時期に長州藩が経験した下関戦争とあわせて、雄藩の対外政策の転換を象徴する出来事となった。
主な人物:島津久光
合戦外交1866年(慶応2年)
薩長同盟
対立していた薩摩藩と長州藩が、坂本龍馬らの仲介により倒幕に向けた軍事同盟を結んだ。
背景
禁門の変や長州征討を経て、薩摩藩と長州藩はかつて激しく敵対していたが、両藩とも攘夷の実行を通じて西洋列強との軍事力の差を痛感し、幕府の統治能力にも見切りをつけて、次第に倒幕へと方針を転換しつつあった。
経緯
1866年、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀と長州藩の木戸孝允との間で秘密裏に会談が行われ、軍事的な相互援助を約束する薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。薩摩藩は長州藩に対して武器の調達を援助し、長州藩が幕府に攻撃された際には薩摩藩が支援することなどが取り決められた。
結果・影響
薩長同盟の成立により、それまで対立していた西日本の二大雄藩が結びつき、倒幕運動は決定的に加速することとなった。同年の第二次長州征討では、同盟の後ろ盾を得た長州藩が幕府軍を撃退し、幕府の権威失墜を決定的なものとした。この同盟は、翌年の大政奉還、さらに戊辰戦争を経て明治維新へと至る流れを準備する重要な転機となった。
主な人物:坂本龍馬,西郷隆盛,木戸孝允
政治外交1867年(慶応3年)
大政奉還
十五代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上する大政奉還を行い、江戸幕府は終焉を迎えた。
背景
薩長同盟の成立以降、倒幕の機運は急速に高まっており、慶喜は武力による倒幕を回避しつつ、徳川家を中心とする新たな政治体制のもとで実権を維持しようと、土佐藩などが提案した大政奉還の建白を受け入れる決断を下した。
経緯
1867年、徳川慶喜は京都の二条城に諸藩の重臣を集め、政権を朝廷に返上する大政奉還を申し出て、翌日には朝廷がこれを許可した。これにより、鎌倉幕府以来約680年間続いた武家政権による統治は、名目上ここに終わりを告げた。慶喜は政権返上後も諸藩による合議のもとで徳川家が主導的な地位を保つことを期待していたとされる。
結果・影響
しかし薩摩・長州両藩を中心とする倒幕派は、同年12月に王政復古の大号令を発して天皇中心の新政府樹立を宣言し、慶喜に対して官位や領地の返上(辞官納地)を求めた。これに反発した旧幕府方との対立は翌1868年の鳥羽・伏見の戦いへと発展し、戊辰戦争が始まることとなった。
主な人物:徳川慶喜
政治1867年(慶応3年)
王政復古の大号令
薩摩・長州両藩などが朝廷を動かし、天皇中心の新政府樹立を宣言する王政復古の大号令を発した。
背景
大政奉還後も徳川慶喜が新体制の中で主導権を握ることを警戒した薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視ら倒幕派は、慶喜を完全に排除した天皇中心の新政府を樹立するための政変を計画していた。
経緯
1867年12月9日、倒幕派は御所を薩摩・土佐・尾張などの兵で固め、王政復古の大号令を発して、幕府や摂政・関白といった旧来の制度の廃止と、天皇のもとに総裁・議定・参与を置く新政府の樹立を宣言した。同日夜の小御所会議では、徳川慶喜に対して内大臣の辞退と領地の一部返上を求める辞官納地の処分が決定された。
結果・影響
この決定に反発した旧幕府方と、新政府を主導する薩摩・長州両藩との対立は決定的なものとなり、翌1868年1月、鳥羽・伏見において両者が武力衝突する戊辰戦争が始まった。王政復古の大号令は、名実ともに江戸幕府に代わる新たな政治体制の始まりを告げるものであり、明治維新の出発点として位置づけられている。
主な人物:西郷隆盛,大久保利通,岩倉具視
政治事件1868年(慶応4年)
江戸城無血開城
戊辰戦争の中、西郷隆盛と勝海舟の交渉により、江戸城は戦火を交えることなく新政府軍に明け渡された。
背景
1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府軍は徳川慶喜追討を掲げて東征を開始した。江戸で全面戦争となれば市街地が戦火に見舞われ甚大な被害が出ることが予想され、旧幕府方の勝海舟は江戸を戦禍から守るための交渉に奔走した。
経緯
新政府軍参謀の西郷隆盛と旧幕府方代表の勝海舟は、江戸総攻撃を目前に控えた1868年、会談を重ねて交渉を行った。勝は江戸の惨状を避けたいという西郷の思いにも訴えかけ、徳川慶喜の水戸謹慎や江戸城の明け渡しなどを条件に、予定されていた総攻撃は中止された。同年4月、江戸城は戦闘を経ることなく新政府軍に引き渡され、無血開城が実現した。
結果・影響
江戸城の無血開城により、江戸の町は戦��を免れ、多くの住民の命が救われることとなった。この後も奥羽越列藩同盟との戦いや函館での戦闘など戊辰戦争は1869年まで続いたが、江戸という政治的中心地の平和的な接収は新政府による全国統一を大きく前進させ、江戸はまもなく東京と改称されて新たな首都としての歩みを始めることとなった。
主な人物:西郷隆盛,勝海舟,徳川慶喜
政治合戦事件