1573年(元亀4年)
室町幕府の滅亡
織田信長が十五代将軍足利義昭を京都から追放し、約235年続いた室町幕府は事実上滅亡した。
背景
織田信長に擁立されて将軍となった足利義昭であったが、次第に信長の傀儡的な立場に不満を強め、武田信玄や朝倉義景、浅井長政、石山本願寺など各地の反信長勢力と結んで信長包囲網を形成し、信長打倒を画策するようになっていった。
経緯
1573年、信長との対立が決定的となった足利義昭は挙兵したが、頼みとしていた武田信玄がその直前に病没するなど後ろ盾を失っており、信長軍の攻撃を受けて降伏した。信長は義昭を京都から追放し、以後義昭は将軍の地位こそ形式的に保持したまま諸国を流浪することとなった。これにより足利尊氏以来続いてきた室町幕府は、京都における実質的な機能を完全に失った。
結果・影響
室町幕府の滅亡により、名実ともに戦国大名の実力による争いが天下統一を左右する時代となった。信長はその後も比叡山焼き討ちや長篠の戦いなどを経て勢力を拡大し、天下統一事業を推し進めていくこととなり、日本史は安土桃山時代と呼ばれる新たな段階へと移っていった。
主な人物:織田信長,足利義昭
政治事件1575年(天正3年)
長篠の戦い
織田・徳川連合軍が、大量の鉄砲を活用した戦術で甲斐の武田勝頼の軍勢を打ち破った。
背景
長篠城(三河国)をめぐって、城を守る徳川方と、これを攻める甲斐の武田勝頼の軍勢が対峙しており、勝頼の父武田信玄以来最強と謳われた騎馬軍団を中心とする武田軍に対し、織田信長・徳川家康の連合軍が救援に向かった。
経緯
1575年、長篠城近くの設楽原において、織田・徳川連合軍は馬防柵を築いて陣を構え、大量に用意した鉄砲を三段に配置するなど、当時としては先進的な戦術を用いて武田軍の騎馬突撃を迎え撃った。武田軍は再三の突撃を繰り返したが、柵に阻まれたうえ鉄砲による集中射撃を浴び、山県昌景や馬場信春ら有力な重臣を数多く失う壊滅的な敗北を喫した。
結果・影響
長篠の戦いでの大敗により、武田氏は多くの有力な家臣を失って急速に勢力を弱め、1582年には織田・徳川連合軍の攻撃を受けて滅亡することとなった。この戦いは、鉄砲を組織的に活用した集団戦術が、伝統的な騎馬中心の戦術に対して優位に立つことを示した合戦として、戦国時代の戦術史における画期とされている。
主な人物:織田信長,徳川家康,武田勝頼
合戦1576年(天正4年)
安土城
織田信長が、琵琶湖畔に壮麗な天主を持つ安土城の築城を開始した。
背景
畿内やその周辺を平定し天下統一に向けて着実に勢力を拡大していた織田信長は、自らの権威を示すとともに、交通の要衝であり京都にも近い近江国に、新たな政治・軍事の拠点を築こうとしていた。
経緯
1576年、信長は琵琶湖畔の安土山に城の築城を開始した。安土城は石垣を本格的に用いた高層の天主を備え、内部は金碧障壁画で豪華に装飾されるなど、それまでの城郭とは一線を画す壮麗な建築であった。城下には楽市楽座を実施して商工業者を集め、経済的にも繁栄する城下町が形成された。天主の様式は後の大坂城や江戸城など近世城郭の先駆けとなった。
結果・影響
安土城は信長の権勢を象徴する建築として全国にその名を知られたが、1582年の本能寺の変後まもなく焼失し、短い期間しか存在しなかった。それでも安土城が示した壮大な天主を持つ城郭のあり方は、以後の豊臣秀吉や徳川家康による築城にも大きな影響を与え、安土桃山時代という時代区分の名の由来ともなっている。
主な人物:織田信長
文化政治1582年(天正10年)
山崎の戦い
本能寺の変後、備中から急ぎ戻った羽柴秀吉が、山崎で明智光秀の軍勢を破った。
背景
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、京都周辺の掌握を進めていたが、当時備中高松城で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の死を知るとただちに毛利氏と講和を結び、驚異的な速さで軍を畿内へ引き返させた。
経緯
1582年、秀吉は摂津と山城の境にある山崎(京都府大山崎町)で明智光秀の軍勢と対峙した。秀吉軍は織田家の重臣であった丹羽長秀や織田信孝らも合流させて大軍を編成しており、数的にも優位な状況で光秀軍を打ち破った。光秀は敗走する途中、落ち武者狩りにあって落命したと伝えられている。
結果・影響
山崎の戦いでの勝利により、秀吉は主君信長の弔い合戦を成し遂げた形となり、織田家中における発言力を一気に高めた。この後秀吉は、清須会議での主導権掌握や賤ヶ岳の戦いでの柴田勝家打倒を経て、信長の後継者としての地位を不動のものとしていくこととなった。
主な人物:羽柴秀吉,明智光秀
政治合戦1582年(天正10年)
本能寺の変
家臣の明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に滞在していた織田信長を急襲し自害に追い込んだ。
背景
織田信長は各地への遠征を家臣たちに命じて天下統一事業を進めており、明智光秀もその一人として中国地方への出陣を命じられていたが、信長からの度重なる叱責や処遇への不満など、光秀の謀反の動機については現在もさまざまな説が唱えられている。
経緯
1582年、中国地方への出陣途上にあった明智光秀は、突如軍勢の進路を変えて京都へ向かい、わずかな供回りとともに本能寺に宿泊していた織田信長を急襲した。不意を突かれた信長は寺に火を放って自害し、嫡男の織田信忠も二条御所で討死した。光秀はその後京都を制圧したが、味方につくと期待していた諸大名の支持は得られなかった。
結果・影響
本能寺の変により、天下統一を目前にしていた織田信長は非業の死を遂げた。この報を中国地方で聞いた羽柴秀吉は、毛利氏と急ぎ和睦して引き返し(中国大返し)、わずか11日後には光秀を討ち取ることとなり、信長の後継者としての地位を確立する大きな転機となった。
主な人物:織田信長,明智光秀
政治事件1582年〜1598年頃(天正10年〜慶長3年頃)
太閤検地
豊臣秀吉が、全国の田畑の面積や収穫量を統一基準で調査する太閤検地を実施した。
背景
戦国時代の土地制度は、荘園制以来の複雑な権利関係や、地域ごとに異なる面積・容積の基準が入り混じっており、全国統一を進める豊臣秀吉にとって、統一的な基準で年貢を徴収するための土地把握が急務となっていた。
経緯
秀吉は1582年頃から征服した各地で検地を実施し、統一した基準の枡(京枡)や面積単位(一間を6尺3寸とするなど)を用いて田畑の面積や収穫量(石高)を調査させた。検地帳には実際に耕作する農民の名前を登録し、一つの土地に一人の耕作者を対応させる一地一作人の原則を確立して、それまで複雑に重なり合っていた土地の権利関係を整理した。
結果・影響
太閤検地により、全国の生産力は石高という統一的な基準で把握できるようになり、大名の領地の規模や軍役の負担も石高に基づいて定められるようになった。この検地は、後の江戸幕府の石高制による支配体制の基礎となり、荘園制以来続いてきた土地制度を実質的に解体する画期的な政策として評価されている。
主な人物:豊臣秀吉
政治経済1583年(天正11年)
大坂城
豊臣秀吉が、石山本願寺の跡地に壮大な大坂城を築き、天下統一の拠点とした。
背景
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り織田家中の実権を握った秀吉は、信長の安土城をしのぐ規模の居城を築くことで、自らが信長の後継者であることを内外に示そうとしていた。かつて織田信長と激しく争った石山本願寺の跡地は、水運の便にも優れた要地であった。
経緯
1583年、秀吉は大坂の石山本願寺跡に築城を開始した。全国から動員した大名や職人の力を結集して築かれた大坂城は、高い石垣と広大な堀に囲まれ、黄金の装飾を随所に施した豪華な天守を備えるなど、当時最大級の規模と壮麗さを誇る城郭となった。城下には商人や職人を集めて城下町を整備し、経済的な拠点としての機能も持たせた。
結果・影響
大坂城は、秀吉による天下統一事業の中心拠点として機能し、その威容は各地の大名たちに秀吉の権勢を強く印象づけた。秀吉の死後は豊臣秀頼の居城となったが、1615年の大坂夏の陣で落城し、豊臣家は滅亡することとなる。現在の大坂城は江戸時代以降に再建されたものであり、往時の姿は絵図などを通じて偲ばれている。
主な人物:豊臣秀吉
文化政治1583年(天正11年)
賤ヶ岳の戦い
羽柴秀吉が、織田家の後継をめぐり対立した柴田勝家を近江の賤ヶ岳で破った。
背景
本能寺の変後の清須会議で主導権を握った秀吉に対し、織田家の宿老であった柴田勝家は織田信孝と結んでこれに対抗しており、両者の対立は織田家の後継体制をめぐる深刻な内部抗争へと発展していった。
経緯
1583年、柴田勝家は雪解けを待って近江国へ出陣し、賤ヶ岳付近で秀吉軍と対峙した。緒戦では勝家方が優勢に戦いを進めたが、秀吉は美濃からの大返しで自ら大軍を率いて戦場に駆けつけ、形勢を逆転させて勝家軍を打ち破った。敗れた柴田勝家は本拠の北庄城に退いたが、秀吉軍に包囲されて妻のお市の方とともに自害した。
結果・影響
賤ヶ岳の戦いでの勝利により、秀吉は織田家中における最大の対抗勢力を排除し、事実上織田家の実権を掌握することとなった。この勝利を経て秀吉は大坂城の築城に着手し、名実ともに信長の後継者として天下統一事業を主導する立場を確立していった。
主な人物:羽柴秀吉,柴田勝家
政治合戦1587年(天正15年)
バテレン追放令
豊臣秀吉が、九州平定の途上でキリスト教宣教師の国外追放を命じるバテレン追放令を発した。
背景
九州平定を進める中で秀吉は、長崎がイエズス会に寄進されていた事実や、キリシタン大名による神社仏閣の破壊、南蛮貿易を通じた日本人の奴隷売買などの実態を知り、キリスト教の急速な広まりが自らの支配体制にとって脅威になりうると警戒するようになった。
経緯
1587年、九州の島津氏を降した秀吉は、博多においてバテレン(宣教師)の20日以内の国外退去を命じるバテレン追放令を発布した。ただし南蛮貿易そのものは継続を認めたため、宣教師の追放は徹底されず、多くの宣教師が国内にとどまって潜伏しながら布教を続けるなど、法令は実効性を欠く面もあった。
結果・影響
バテレン追放令は、日本におけるキリスト教政策が黙認から統制・弾圧へと転換する画期となった。この方針は後の1596年のサン=フェリペ号事件を経て26聖人殉教という厳しい弾圧に発展し、さらに江戸幕府による禁教令へと引き継がれ、日本の対外関係と宗教政策を長く規定していくこととなった。
主な人物:豊臣秀吉
政治外交文化1588年(天正16年)
刀狩令
豊臣秀吉が、農民から武器を没収して一揆を防ぎ、兵農分離を進める刀狩令を発した。
背景
戦国時代には農民も武装して一揆を起こすことが珍しくなく、秀吉自身も各地で一向一揆などの武装抵抗に苦しめられてきた経験から、支配を安定させるためには武士と農民の身分を明確に区別する必要があると考えていた。
経緯
1588年、秀吉は方広寺の大仏建立という名目のもと、農民から刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武器を没収する刀狩令を発した。没収した武器は大仏の釘やかすがいに用いると説明されたが、実際の狙いは農民の武装解除にあった。この政策は太閤検地とあわせて進められ、農民は農業に、武士は軍事にそれぞれ専念する兵農分離を推し進める役割を果たした。
結果・影響
刀狩令によって農民の武装蜂起の可能性は大きく制限され、武士と農民という身分の違いが社会制度として明確に固定化されていった。この兵農分離の方針は、後の江戸幕府による士農工商の身分制度の基盤ともなり、近世日本の社会秩序を形づくる重要な政策として位置づけられている。
主な人物:豊臣秀吉
政治1590年(天正18年)
小田原征伐
豊臣秀吉が大軍を率いて関東の後北条氏を滅ぼし、奥州も平定して天下統一を完成させた。
背景
秀吉はすでに四国・九州を平定し、諸大名に私的な戦闘を禁じる惣無事令を発していたが、関東に広大な領国を持つ後北条氏はこれに従わず、上野国の名胡桃城をめぐる争いを機に秀吉との対立が決定的となった。
経緯
1590年、秀吉は諸国の大名を動員した20万を超える大軍を率いて後北条氏の本拠小田原城を包囲した。北条氏は籠城戦を選んだが、周辺の支城が次々と攻略され、長期の包囲によって城内の士気も低下し、当主北条氏政・氏直父子はついに降伏した。秀吉はその後奥州にも軍を進め、伊達政宗をはじめとする東北の諸大名も服属させた。
結果・影響
小田原征伐の成功により、秀吉は事実上日本全国を統一し、戦国時代以来続いた大名同士の私的な戦闘の時代に終止符を打った。秀吉はこの後、関東に移封した徳川家康を含む諸大名の統制を強め、太閤検地や刀狩とあわせて全国的な統一政権としての支配体制を完成させていくこととなった。
主な人物:豊臣秀吉,北条氏政
政治合戦1592年(天正20年/文禄元年)
文禄の役
天下統一を果たした豊臣秀吉が、明の征服を目指して朝鮮半島に大軍を派遣した。
背景
国内統一を成し遂げた豊臣秀吉は、明の征服という壮大な構想を抱き、その通り道にあたる朝鮮に服属と明への先導を要求したが、朝鮮側がこれを拒否したため、秀吉は武力による制圧を決意した。
経緯
1592年、秀吉は加藤清正・小西行長らを先鋒とする約15万の大軍を朝鮮半島に派遣した。日本軍は当初優勢に戦いを進め、漢城(現在のソウル)や平壌を占領するなど朝鮮半島の広範囲を制圧したが、朝鮮側の義兵による抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、さらに明からの援軍の到着によって戦況は次第に膠着していった。
結果・影響
戦線が膠着する中で日明間の講和交渉が始まり、1593年には休戦状態に入った。しかし交渉は秀吉が求める条件と大きくかけ離れた内容で進められていたことが後に発覚し、交渉は決裂して1597年の慶長の役へとつながっていった。この出兵は朝鮮半島に甚大な被害をもたらし、日本国内でも諸大名の疲弊を招く結果となった。
主な人物:豊臣秀吉,加藤清正,小西行長
外交合戦1597年(慶長2年)
慶長の役
講和交渉の決裂を受け、豊臣秀吉は再び朝鮮半島へ大軍を派遣し戦闘が再開された。
背景
文禄の役後に進められていた日明間の講和交渉は、秀吉が提示していた条件と明側が伝えられていた内容が大きく食い違っていたことが露見し、決裂に至った。これに激怒した秀吉は、朝鮮への再度の出兵を決断した。
経緯
1597年、秀吉は約14万の大軍を再び朝鮮半島へ派遣した。しかし文禄の役の際とは異なり、明・朝鮮側の防備も整っており、日本軍は各地で激しい抵抗に遭って苦戦を強いられた。戦況が膠着する中、1598年に秀吉が病死すると、五大老らは撤兵を決定し、日本軍は朝鮮半島から撤退した。撤退の際には露梁海戦などで多くの犠牲を出しながらも、諸将は帰国を果たした。
結果・影響
二度にわたる朝鮮出兵は、朝鮮半島に甚大な人的・物的被害をもたらしたのみならず、日本国内でも諸大名の財政や兵力を大きく消耗させ、豊臣政権の弱体化を招く要因となった。出兵に動員された諸大名の間に不満や対立が生じたことは、秀吉の死後に起こる関ヶ原の戦いへの伏線ともなったと指摘されている。
主な人物:豊臣秀吉
外交合戦1598年(慶長3年)
豊臣秀吉の死
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、幼い秀頼の将来を案じつつ伏見城で死去した。
背景
晩年の秀吉は、長らく後継者に恵まれなかったが、晩年になって側室淀殿との間に秀頼をもうけた。秀吉は幼い秀頼に政権を継がせるため、徳川家康ら有力大名を五大老に、石田三成ら腹心を五奉行に任じて、集団による合議で政権を支える体制を整えようとしていた。
経緯
1598年、秀吉は病により伏見城で死去した。死に際して秀吉は五大老・五奉行に対し、秀頼への忠誠を誓わせ、幼い秀頼の行く末を繰り返し案じる言葉を残したと伝えられている。当時朝鮮半島に出兵していた日本軍には秀吉の死が伏せられたまま撤兵が進められ、慶長の役は事実上終結した。
結果・影響
秀吉の死後、五大老の筆頭であった徳川家康が急速に台頭し、他の大老や奉行との対立を深めていった。石田三成ら豊臣政権を支えようとする勢力との対立は、1600年の関ヶ原の戦いへと発展し、豊臣秀頼を中心とする体制は名目上は存続したものの、実質的な政権の主導権は家康の手に移っていくこととなった。
主な人物:豊臣秀吉,徳川家康,石田三成
政治1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦い
徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が美濃の関ヶ原で激突し、東軍が勝利を収めた。
背景
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康は諸大名との個別の関係を強めるなど勢力を拡大しており、これに反発する石田三成ら豊臣政権を支えようとする勢力との対立が深まっていった。会津の上杉景勝討伐に向かった家康の隙をついて、三成は挙兵した。
経緯
1600年、家康は上杉討伐から引き返し、諸大名を東軍として結集させて西へ進軍した。美濃国関ヶ原において、家康率いる東軍と、三成を中心に毛利輝元を総大将に担いだ西軍が激突した。合戦は当初西軍が優勢とも見られたが、小早川秀秋をはじめとする西軍諸将の裏切りが相次いだことで戦局は一変し、わずか半日で東軍の勝利に終わった。
結果・影響
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、西軍についた大名の所領を没収・削減する一方、東軍についた大名には加増を行うなどして、全国の大名を再編し圧倒的な権力を確立した。この勝利により家康の覇権は決定的なものとなり、1603年の征夷大将軍就任と江戸幕府の開府へとつながる、日本史における大きな転換点となった。
主な人物:徳川家康,石田三成
政治合戦